早く行かなければ。

  午後五時四十八分、人の波に押されて、電車からホームに投げ出される。今日も一日の仕事が終わり、私は最寄駅に帰ってきた。幸運なことに私の勤めている会社は激務でもないし、面倒な人間関係のしがらみもない。しかし毎日同じ電車に、何の目的もなく人生を過ごしている者たちと同じ電車に乗ることは常々癪に触るな、と思っているが。
そんな卑屈な思考を巡らせながら旅路につく途中、色褪せた看板が目に入ってきた。それは本屋の物で、「三船書店」と掠れたインクで書いてあるその店に私は、不思議と興味が湧いてきて、吸い込まれるように入店してしまった。

  中に入ると、真っ先になんとも言えない匂いが鼻を刺した。ああ、ここは本屋の中でも、古本屋だったのだなとその時初めて私は気づく。
自分は嫌いなものが多いほうだと認識している。先ほどの電車もそうだし、南瓜や蟷螂からテレビドラマ、イヤリングも、そして古本も嫌いなモノの一つだった。見ず知らずの誰かが触ったであろうページの数々や、日焼けしてセピア色になった紙、その匂いなど何から何まで気に食わないのだ。
店に入って数分間、目的もなく棚に並べられた本を眺めていた。何か面白いものはないかと、私以外客のいない、色褪せた店の中の、色褪せた本の道を進んでいった行き止まり。そこには少し猫背の人が立っていた。ほうきを持って、きっと店員だろう。ぼさっとした髪の毛のその人は、なかなかこないお客に驚いた様子で、「どうもいらっしゃいませ。」と、か細い声で私に言った。軽く会釈をしたのち、また数分間うろついていると、「あの、何かお探しですか?」と再び話しかけてきた。今度は横に首を振ると、「そうですか。」その言葉と共に、なんだか寂しそうにレジに座るのだった。その時私はこの店に入った意味にようやく気づき、適当に古本を何冊も抱えてレジに向かった。またしても私に驚かされた店員はレジの机の上にたくさん並べられた本を一冊ずつ値段を確認しながら、久しぶりの会計作業で、おぼつかない手つきで電卓を打ち込むその顔を、私はまだ誰も知らない感情で見るのだった。私は初めて気がついた。

  三日後、また電車から投げ出されると、なぜかまたあの本屋に行きたくなった。駅の改札を出て、歩道橋を渡り坂を登って、また色褪せた看板の前までやってきた。半分だけ空いた扉から店に入ると、またあの店員が、この前と同じ服を着て立っていた。商品を整理していたその人は私を見つけると、「あ…。いらっしゃいませ。」またか細い声で、不思議そうに言った。つい数日前に7冊も本を買ったのに、また本を買う人間は、どう目に映るのだろうか。そう考えながら私は安めの古本を一冊、レジに持って行き購入した。
会計を済ませ、釣り銭を受け取った後に、少し張った「ありがとうございました。」と言う声を背に受け、扉を開くと、冷たい風が吹き込んできた。
確か、夕方は冷え込むと予報が出ていた。コートを着ていないことが少し不安だったが、特に寒がりもせず角を曲がった。
消えかかっている街灯や吠える犬、飲食店に入っていく学生、全てを懐かしく感じながら家に帰ると、ハムスターが元気に回し車を鳴らす音が出迎えてくれた。確かこのハムスターは一年前に飼い始めた。名前は特に決めていない。ホームセンターに行ったとき、安かったのでなんとなく買ってきたのだった。この齧歯類に餌を与え、自分も食事を摂った。そして風呂を出た後に、私は乱雑に置かれた古本達に気がついた。そういえば、こんなに買ったのにまだ一冊も手をつけてもいなかった。あまり気乗りはしなかったが、擦れた表紙を開き、ページを捲り、まためくっていった。

  八冊全て読み終えたときにはもう空は白み始めていた。特別面白いと思える作品はなかったが、何故だか私は涙を数滴こぼしていた。
そうだ。私は昔、本を読むのが大好きだった。絵も映像もないのに、文字だけでいろんな世界に連れていってくれるのだ。楽しい世界、悲しい世界、綺麗な世界、残酷な世界。たまにはつまらない世界にも。どこへでも、好きなところに行けた。でも私は自分からこの世界への入り口に鍵をかけていた。重くて固い南京錠と鎖で縛り付けていた。それが突拍子もなくどこかに吹っ飛んでいくのを感じる。

  それから私は数日に一回、あの本屋に通った。一冊、また一冊、ときに二、三冊買ってきては読んだ。インクが掠れて読めない文字は想像した。破れたページは自分で補った。 そしていつしか、店員は髪を整え、店を出るときに背中にかける言葉は、
「またいらしてください。」
に変わっていった。
私が二十四冊目を買って家に帰った日、いつもの、玄関まで響いてくるカラカラという回し車の音が聞こえてこなかった。ハムスターは死んでいた。型落ちしたロボットみたいに、必要がなくなったかのように動かなくなっていた。
その日読んだ本は今までで一番面白かった。内容なんてひとつも覚えてないけれど。

  次に買いに行ったのは会社が休みの平日だった。三船書店は朝の十時から空いているので、新しい本を買いに行った。二十五冊目は今までで一番適当に選んだ。児童文学でも、掌編でも長編でもどうでもよかった。タイトルもわからないその本をレジに持っていった。
「どうしたんですか…?」
ゆっくりと優しく、店員が私に話しかけている。何を聞かれているのかわからなかった私は首を傾げた。
「どうして、どうして泣いているんですか…?」
店員は悲しげな声でまた言う。私は泣いていたのか?そんな疑問が脳裏によぎった瞬間、肌を伝う、空気にさらされて少し冷たくなった涙の粒を感じ取った。
店員は奥に行き、お茶を持ってきてくれた。
「よければ、どうぞ。」
「ありがとう。」
会話が一方通行でなくなったのはそれが初めてだった。
「何か、話してくださいませんか?」
「そうすれば、気持ちが楽になるかも。」
私が俯いていると、
「店なら心配いりません。ご存知の通り、人は滅多にきませんから、こんな平日は特に。」
話し慣れていないのか、途切れ途切れに、しかしとても優しい口調で話してくれた。
「そういえば、今日はどうしてこんなに早くに?」
その言葉を皮切りに、たくさんのことを話した。

  彼女の名前は志信ということ、いじめられていたせいで高校からはろくに学校に行くことができなかったこと、そのせいで就職できず、叔父のものであったこの書店を継いだことを私は知った。
逆に私は、自分の名前は薫だということ、三日前に飼っていたハムスターが死んだこと、三年前に弟が死んだこと、学校や就職先を親に決めつけられたこと、それに従い続けたことを彼女に話した。ただの店員と客なのに。最初はなんとも言えない感覚だったが、話を続けるうちに、誰にも話したことがないことを、すこしも話したことがない人に吐き出すというのは、なんだか心地の良いものだったということを認識した。

それからも私は数日に一回、志信のいる本屋に通った。一冊、また一冊、時にニ、三冊買っては読んだ。店の中で読んで、志信と本の感想を言い合うこともあった。そして休日には店を閉め、少し遠出して文学散歩なんてものをしてみた。一緒にご飯も食べにいったし、カラオケにもいった。彼女と食べる南瓜料理は美味しかったし、彼女の歌うドラマソングはすぐに好きになった。
遊びに自分から誘うことはなかった、いや、誘い方を忘れてしまったのかもしれないが、そんな私を何度も飽きずに、遊びに誘ってくれた。私も、少し忙しくても、疲れていても、誘いを断ることは一度もなかった。しかし、ひとつだけ断っていることがあった。本を買うたびに彼女は、割引でいい、値段をまける、時にはタダで良いなんてことを言ったが、それだけは結構だと拒否していたのだった。お金を払って古本を買い続けることをやめてしまえば、どうしてかはわからないが、彼女を、志信を失う気がしたから。

  「薫さんは、本当に綺麗ですね。」
ある時そんなことを私は言われた。
「本屋にたまにくるお客さんは、ご老人がとっても多くて。あなたを初めてみた時驚きました。」
「そんなことはないよ。」
と返すと、
「私も、あなたを見習って髪を整えたり、服に気をつかったりしたんですよ。」
「憧れるくらい綺麗だということです。」
いつしか流暢に喋るようになった志信は私を褒めちぎった。
「今は、出会ったときにも増して綺麗ですよ!」
褒められたのなんてずっと久しぶりだった。弟が病気で死ぬ間際、
「泣いていても綺麗だ」
と言われて以来だ。その時は悲しかったけれど、この時はすごくくすぐったくって、すごく嬉しかった。

  奇妙な出会いをしてから半年ほど経ったころ、私たちは、旅行に出かけた。旅を満喫して宿に帰った後、志信はこんなことを口にした。「実は…」久しぶりに言葉が詰まる志信は、間を置いて続けた。「実は私、小説家になりたいんです。」人の夢を聞くのも久しぶりだった。彼女の夢は初めて聞いたけれど、すごく素敵だと思った。応援する、といいかけた途端、おもむろに彼女は言った。「私は薫さんの感性がすごく好きです。だから…」また間が開いて、「一緒に小説を作ってくれませんか?」と彼女は言ったのだ。自分に情けなさと申し訳なさを感じたけれど、「一緒に頑張ろう。」と、そう返した。

  それから私たちは毎日本を読み、良いフレーズを学び、文の構成を学び、またいろんなところに行った。そして感性を豊かにしたのだ。彼女は驚くべき速さで幾つも物語を完成させた。どれもこれも、すごく面白かったが、それは全てほとんど彼女が一人で書いたものだった。

  三年が経ち、志信は投稿した小説で大きな賞を取った。その後も幾つも、幾つも賞を取って、いつしか彼女は、若くして多数の賞を持つ大人気の作家になっていた。
雑誌やテレビに引っ張りだこになった彼女は言うのだ。「全ては親友の薫さんおかげです。」と。

  そんなのは嘘だ。彼女は物語をほとんど一人で完成させた。きっと私がいなくても素晴らしい物語はいくらでも書けた。
私は勘違いしていた。幼い頃から病気で歩くこともままらなかった弟や、小さくて非力なハムスターは私がいなければ生きていけない者たちであった。辛い人生の中で、それらに私は存在意義を見出していたのだ。
でも志信は違った。私がいなくてもきっと生きていけた。本を買わなくたって叔父さんや親のお金があるだろうし、私がいなくても友達はきっとできた。
私の方が彼女に生かされていたのだ。
私は彼女が大好きだった。出会った時から、ひと目見た時からずっと愛していた。一緒になりたかった。
でもきっとそれはもう、叶わない夢だ。いや、最初から叶わない夢だった。

  賞のセレモニーから帰ってきた志信に、私は呼び出された。
高級マンションの上層階のドアをノックすると、彼女は笑顔で出迎えてくれた。高そうな服、光るイヤリングに、染めた髪。あの時からは想像もできないような容姿だった。奥から高い酒を出してきて彼女は言った。
「今度出す小説では、インパクトが欲しいんです。」
私は思い付いた。いい考えがあるから数日待ってほしいと言うと、彼女は快く了解した。
「さよなら。」
志信にそう告げて私は家に帰った。

  そして今日、私はホームセンターに行き、ハムスターとロープを買ってきた。
ハムスターを志信の家に送る手続きをしたので、ロープを天井にくくりつけようと思う。

  私の感性が好きだと言ってくれたから、私はこれを書き残す。あなたに出会ってからの日々をここに。これを書いている時の私は、きっと誰よりも醜い。涙で顔がぐしゃぐしゃなのだから、なお醜い。
紙にシミができていたらごめんね。
これをあなたが読んでくれているといいのだけれど。


  電車へと身を投げ出す。

おわり

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