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主に世界と人間について書かれたエッセイたち

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#社会人1年目の私へ

深夜散歩のすヽめ

 深夜、あてもなく散歩に出かける。毎回、違う目的地を見つける。よく川へ行く。あるいは、近くの公園。もちろん、これといった特徴が一つもない公園。少し前は新大阪駅へ。ついこの前は、大阪城へ。散歩というが、実は自転車で。深夜、活動を停止させた大阪の街を自転車で小粋に駆け抜ける。夜風を身体に当てて、ただ気の赴く方向や地点を定め、車輪を回す。ひんやりとした夜の風が、肌を撫でる。鼻歌を淀屋橋に置いて行く。   昼を襲う人混みが消失した深夜の自転車は、徒歩では決して得られない質量の風を感

自分を説明したくないから、物を書くしかなかった

 自分のことを説明したくない。この感情がいつもコミュニケーションを邪魔する。社会への適合を阻害する。自我と社会に越えようのない絶望を生み出す。表面的に発してしまった言葉は、曲解され、あるいは深淵まで理解を誘うことなく関係性へ齟齬を生む。結果、ぼくは「コミュ障」の烙印を押される。コミュニケーションは関係性の問題なのに。  物事の説明は結構うまい方らしい。ずっとそう言われてきた。なぜ積分をすると面積を求められるのか、とかどうして日本の教育は画一一斉授業になったのかとか、東洋思想

「2091年」、あるいは2019年

2091年の世界。価値観になりたい。  権力は世界を豊かにしない、というのが狼だぬきの基本的な姿勢である。ピケティだって言ってた。r>gだから、格差は拡大し続ける。rもgもなんなのかはわからないけれど、偉い経済学者が言うんだから、おそらくそうなんだろう。つまり人間は、時間の累積が無機質に不公平を増やし続けるシステムに生きている。「持たざるもの」の子孫は不幸になる運命なのだ。緩やかに、それでいて複利的に。統計的な証明。統計は、あんまり嘘はつかない。嘘をつくのは物書きの役割だ。

公平な世界はあり得るか

 不公平な世界だな、とつくづく思う。身長はそれほど高くないし、顔も良く言っても中の上。良く言ってもね。つまり中の下。関西人は、盛ることで生きながらえる。おかんが「お母さんもう寝るで」っていう宣告をしたにも関わらず、リビングで1ミリも教養のつかなそうなバラエティをつけているのを見て「盛る」を学ぶ。  背は高くないと書いたが、その中でも足が短い。背高くないのに足が短いとはどういうことだ。バランスがおかしいだろう。小4くらいまでは、座高が高いことを嬉々として友人に話したが、5年生

自己責任論へ責任追及

 「自己責任」の考え方は、誰も幸せにしない。全てを不幸へ葬る、危険思想。それでいて、その危険思想は当然のようにあらゆる人々の意思決定の基準となる。  何よりタチが悪いのは、自己責任論が人を傷つけ自分を守る刃物にしかならないことを、ほとんど無自覚であることだ。無意識まで入り込んだ価値観ほど、威力が高く修復が難しいものはない。良くいうと「文化」であるが、それは言い換えると「イデオロギー」にもなり得る。ファシズムのように。  自己責任論は、一体どのように人を不幸へ葬るのか?どの

不歓迎社会日本

 一億総中流社会。妬み嫉妬社会。格差社会。学歴社会。少子高齢化社会。シルバー民主主義社会。「○○社会」というフォーマットでの日本への揶揄は後を絶たない。あらゆる日本人は自分自身や付近の環境を観察し、その「感情的な問題点」を「社会」に投影して批判する。やれやれ、どいつもこいつも人のせいに...と、ぼくもまた、人のせいにする自分自身を社会に投影し、嘆く。それに気づき、再び絶望。絶望したら川へ行こう。正しく絶望できる数少ない場所が都会の川だ。人間は嫌になるなあ  今日は自己の精神