マガジンのカバー画像

主に世界と人間について書かれたエッセイたち

29
運営しているクリエイター

#とは

偶然のような必然、のような偶然

 本屋が好きだ。それも紀伊国屋書店とかジュンク堂のような大型の書店。都市にあるような大型の図書館でもダメだ。とにかく大きな本屋に身を埋め、てくてくと無作為に歩き回りながら、目についた本をほとんど衝動的に購入して、勢いで読み切る。そういう「読書」が好きで、なんならほとんど偏愛的な趣味とも言える。  日が傾き視界を突き刺す西日が1日の終わりを予告する頃、今日も大型の本屋に出かけた。読みきっていない山積みの本に一瞥をくれながら重い鉄の扉を開け玄関を後にする。後ろめたさ、のようなも

「しんどい人が救われるべきだ」の幻想。一体、救われるべきは誰か

 梅雨の浮かない曇り空が影を落とした1ルームの部屋。対抗して、早すぎる点灯。窓を開けると、どんよりと湿った風が入り込む。窓を閉めて、冷房をつける。約1ヶ月続く予定の灰色の空を眺めて、ため息を落とす。毎年梅雨は来るのに、毎年落ち込む。馬鹿みたいだな。そんなもんか。  目の前で、ハムスターが回し車を休みなく蹴り続ける。「どうして意味もないのに蹴り続けるんだろう?」なんて思って、ハッとする。そうか、ハムスターにはハムスターの正義があるんだ。人間である(あるいは狼だぬきである)ぼく

人には人の、「辞書」がある

「うんうん、分かる分かる」  この言葉は、ほとんど暴力と同じだろうと思う。人は分かり合えない。圧倒的な真実。それでも分かり合える世界を希求して生きながらえることはできる。しかし、その道程は長く、険しい。シルクロードを開拓するかのように。あるいは、もっと際限がないように感じる荒野で無くした指輪を探すかのように。  この頃、共感性が一つのコンテンツになってきた。他者の痛みや喜びを分かち合ったり、それぞれに備わる共感性を利用したマーケティング手法が生まれたり、共感力が大黒柱的リ

深夜散歩のすヽめ

 深夜、あてもなく散歩に出かける。毎回、違う目的地を見つける。よく川へ行く。あるいは、近くの公園。もちろん、これといった特徴が一つもない公園。少し前は新大阪駅へ。ついこの前は、大阪城へ。散歩というが、実は自転車で。深夜、活動を停止させた大阪の街を自転車で小粋に駆け抜ける。夜風を身体に当てて、ただ気の赴く方向や地点を定め、車輪を回す。ひんやりとした夜の風が、肌を撫でる。鼻歌を淀屋橋に置いて行く。   昼を襲う人混みが消失した深夜の自転車は、徒歩では決して得られない質量の風を感

自分を説明したくないから、物を書くしかなかった

 自分のことを説明したくない。この感情がいつもコミュニケーションを邪魔する。社会への適合を阻害する。自我と社会に越えようのない絶望を生み出す。表面的に発してしまった言葉は、曲解され、あるいは深淵まで理解を誘うことなく関係性へ齟齬を生む。結果、ぼくは「コミュ障」の烙印を押される。コミュニケーションは関係性の問題なのに。  物事の説明は結構うまい方らしい。ずっとそう言われてきた。なぜ積分をすると面積を求められるのか、とかどうして日本の教育は画一一斉授業になったのかとか、東洋思想

「2091年」、あるいは2019年

2091年の世界。価値観になりたい。  権力は世界を豊かにしない、というのが狼だぬきの基本的な姿勢である。ピケティだって言ってた。r>gだから、格差は拡大し続ける。rもgもなんなのかはわからないけれど、偉い経済学者が言うんだから、おそらくそうなんだろう。つまり人間は、時間の累積が無機質に不公平を増やし続けるシステムに生きている。「持たざるもの」の子孫は不幸になる運命なのだ。緩やかに、それでいて複利的に。統計的な証明。統計は、あんまり嘘はつかない。嘘をつくのは物書きの役割だ。

初夏の雨上がりを肴に

 雨は嫌いだ。だから、雨上がりはいい。特に、梅雨入り前、初夏の雨上がりは最高だ。25度を優に超える日々、少しずつぼくたちに夏の脅威の片鱗を与え、記憶からその恐怖と絶望を思い起こさせるまだ乾いた暑さ。これから5度以上気温が上がって、そこに湿度という悪魔も手を貸してくると思うと、途方に暮れる。  だからこそ、5月末の雨上がりはいい。まず、雨上がりがいい。今日のように朝から晩まで降り続けた日の雨上がりの夜は至高。嫌がらせのようにしとしとと降り続けた雨がないだけで、その変化に小さな

公平な世界はあり得るか

 不公平な世界だな、とつくづく思う。身長はそれほど高くないし、顔も良く言っても中の上。良く言ってもね。つまり中の下。関西人は、盛ることで生きながらえる。おかんが「お母さんもう寝るで」っていう宣告をしたにも関わらず、リビングで1ミリも教養のつかなそうなバラエティをつけているのを見て「盛る」を学ぶ。  背は高くないと書いたが、その中でも足が短い。背高くないのに足が短いとはどういうことだ。バランスがおかしいだろう。小4くらいまでは、座高が高いことを嬉々として友人に話したが、5年生

自己責任論へ責任追及

 「自己責任」の考え方は、誰も幸せにしない。全てを不幸へ葬る、危険思想。それでいて、その危険思想は当然のようにあらゆる人々の意思決定の基準となる。  何よりタチが悪いのは、自己責任論が人を傷つけ自分を守る刃物にしかならないことを、ほとんど無自覚であることだ。無意識まで入り込んだ価値観ほど、威力が高く修復が難しいものはない。良くいうと「文化」であるが、それは言い換えると「イデオロギー」にもなり得る。ファシズムのように。  自己責任論は、一体どのように人を不幸へ葬るのか?どの

独善的世界認識のすヽめ

 正直、読まないで欲しい。このノートは、どれだけ人の世が絶望で溢れているかを書き連ねる掃き溜めにすぎない。なぜなら、人の世、つまり世界はそれくらい絶望的であるからだ。この記事は、世界そのものだ。この一説を知っているだろうか。 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 (『草枕』夏目漱石)  「夏目漱石なんて、堅苦しくて」なんて、人は純文学を敬遠するが、意外と悪くないものだな、と思う。純文学だけ

大きな声で語るということ

 一つ、気をつけていることがある。なるべく大きな声で話さないことだ。声は大きいほど、比例して正しく聞こえてしまうからだ。確かに、声が大きいというのはある程度自信に比例するだろう。自信があるのであれば、正しい可能性は小さくはない。少なくとも、小さな小さな、消え入る声で発される、太陽の光で今にも蒸発しそうな朝露のような意見に比べれば。  一方、こうも取れる。声が大きいからといって、自信があるからといって正しいとは限らないのだ。テストを思い出そう。自分の解答に対する自信は、予定ほ

不歓迎社会日本

 一億総中流社会。妬み嫉妬社会。格差社会。学歴社会。少子高齢化社会。シルバー民主主義社会。「○○社会」というフォーマットでの日本への揶揄は後を絶たない。あらゆる日本人は自分自身や付近の環境を観察し、その「感情的な問題点」を「社会」に投影して批判する。やれやれ、どいつもこいつも人のせいに...と、ぼくもまた、人のせいにする自分自身を社会に投影し、嘆く。それに気づき、再び絶望。絶望したら川へ行こう。正しく絶望できる数少ない場所が都会の川だ。人間は嫌になるなあ  今日は自己の精神

「説明しないとわからないことは、説明してもわからない」

 村上春樹の『1Q84』に出てくる一説を、タイトルにした。狼だぬきも、本くらい読む。特にすることがないからね。読み進める中で、この言葉が特に目に止まり、同時にページを捲る手も止まってしまった。  半分、分かる。もう半分は、すとんと来ない。まるで、はじめて二次関数の頂点を求める公式を教えてもらったときのような感覚。使えるが、腹に落ちない。なぜ頂点が求まるのかが、しっくりこないあの感覚。  二次関数の頂点が平方完成で求まる理由は簡単だった。ただ、x=0の状態からズラした数式で