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主に世界と人間について書かれたエッセイたち

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#毎日note

「自由」や「幸福」なんて、やめちまえ

インフルエンサーにインフルエンスされていても、世界は幸福にも自由にも傾かない  「一億総活躍社会」が近づいているらしい。うそつけ、なんて十三の雑踏に控えめに吐き出す。「個の時代」とか「信用の時代」とかなんとかうそぶいて、分断は余計に広まっているようにすら思える。  誰も彼もが「ブログだ!」「コミュニティづくりだ!」と声高らかに、コミュニティとは名ばかりのサークルをつくっている。  猫も杓子も「正解はないよ」だなんて言って、みんな大して考えもせずにインフルエンスされて自分

陳腐な発言をしないための陳腐な発想

 誰かと会話をしているとき、うんざりすることがある。とりわけ人間とか世界とか、そういう類のものについて話しているときにだ。自分の発している言葉が何か直接的で単線的過ぎて、世界にある膨大な前提や条件、要素を等閑に付して言語化しているような気がしてくる。もっと美しく残酷であるはずの世界をちっとも表せていないことに半ば絶望し、半ば嬉々として、しどろもどろ。  言語は世界をカテゴライズするものとして機能する。形のないものにカタチを与える。そうして僕たちは世界を認知してきたわけだが、

全部「分かりやすさ」のせいだ

 「分かりやすさ」がある種の正義になってきた。これ以上「分かりやすさ」がインフレするなら、社会は破綻するだろうな。財政破綻ではないから、「意味の破綻」とか「存在の破綻」とかそんな感じだろう。  「分かる」の語源は「分ける」だとしばしば言われる。カブトムシを分かるためには、「カブトムシ」という名前をつけクワガタと区分する必要がある。名前が付けられ形が与えられたものは、たちまち数多の研究によって詳細が付されて行き、さらに分割は進む。カブトムシも、大カブトムシとか、ヘラクレスオオ

感受性マイノリティを差別してはいけない

「形」に囚われる限り、ぼくたちはマイノリティを生み出し続ける  新しいマイノリティがある。世界中で、あらゆる「マイノリティ」が問題とされている。貧困、部落、発達障害、身体障害、難民、LGBT...あらゆるラベリングが、あらゆる区別を生み、随伴的に差別を生み出す。世界をそんなに分かりやすく分割することなんて難しいのに、隔てることばかりに精を出すんだ。大きなものからくくってカテゴライズすれば、残ったものはマイノリティ。至って自然な演算で、残酷だ。  ぼくが今もっとも難しいと感

「朽ちゆくものの美」こそ、絶望を肯定する

 「自分のことなんて、誰もわかってくれない」なんて言ってこうべを垂らして、小部屋に篭って、関係性を自ら断絶して、分かり合える可能世界を消失させて、そのくせ世界を嘆いて誰かのせいにして、それでいて他でもない自分自身に一番嘆いていることに気づかないフリをしていた時期が、20代始めにあった。  世界は自分自身の欲望や精神的欠損が投影され、ぼくの前に現れる。そういう認識を持ってからは、余計に自分自身が惨めで、健気で、憎らしかった。「分かり合える世界を」なんて絵空事を掲げて、その実も

偶然のような必然、のような偶然

 本屋が好きだ。それも紀伊国屋書店とかジュンク堂のような大型の書店。都市にあるような大型の図書館でもダメだ。とにかく大きな本屋に身を埋め、てくてくと無作為に歩き回りながら、目についた本をほとんど衝動的に購入して、勢いで読み切る。そういう「読書」が好きで、なんならほとんど偏愛的な趣味とも言える。  日が傾き視界を突き刺す西日が1日の終わりを予告する頃、今日も大型の本屋に出かけた。読みきっていない山積みの本に一瞥をくれながら重い鉄の扉を開け玄関を後にする。後ろめたさ、のようなも

「しんどい人が救われるべきだ」の幻想。一体、救われるべきは誰か

 梅雨の浮かない曇り空が影を落とした1ルームの部屋。対抗して、早すぎる点灯。窓を開けると、どんよりと湿った風が入り込む。窓を閉めて、冷房をつける。約1ヶ月続く予定の灰色の空を眺めて、ため息を落とす。毎年梅雨は来るのに、毎年落ち込む。馬鹿みたいだな。そんなもんか。  目の前で、ハムスターが回し車を休みなく蹴り続ける。「どうして意味もないのに蹴り続けるんだろう?」なんて思って、ハッとする。そうか、ハムスターにはハムスターの正義があるんだ。人間である(あるいは狼だぬきである)ぼく

深夜散歩のすヽめ

 深夜、あてもなく散歩に出かける。毎回、違う目的地を見つける。よく川へ行く。あるいは、近くの公園。もちろん、これといった特徴が一つもない公園。少し前は新大阪駅へ。ついこの前は、大阪城へ。散歩というが、実は自転車で。深夜、活動を停止させた大阪の街を自転車で小粋に駆け抜ける。夜風を身体に当てて、ただ気の赴く方向や地点を定め、車輪を回す。ひんやりとした夜の風が、肌を撫でる。鼻歌を淀屋橋に置いて行く。   昼を襲う人混みが消失した深夜の自転車は、徒歩では決して得られない質量の風を感

自分を説明したくないから、物を書くしかなかった

 自分のことを説明したくない。この感情がいつもコミュニケーションを邪魔する。社会への適合を阻害する。自我と社会に越えようのない絶望を生み出す。表面的に発してしまった言葉は、曲解され、あるいは深淵まで理解を誘うことなく関係性へ齟齬を生む。結果、ぼくは「コミュ障」の烙印を押される。コミュニケーションは関係性の問題なのに。  物事の説明は結構うまい方らしい。ずっとそう言われてきた。なぜ積分をすると面積を求められるのか、とかどうして日本の教育は画一一斉授業になったのかとか、東洋思想

「2091年」、あるいは2019年

2091年の世界。価値観になりたい。  権力は世界を豊かにしない、というのが狼だぬきの基本的な姿勢である。ピケティだって言ってた。r>gだから、格差は拡大し続ける。rもgもなんなのかはわからないけれど、偉い経済学者が言うんだから、おそらくそうなんだろう。つまり人間は、時間の累積が無機質に不公平を増やし続けるシステムに生きている。「持たざるもの」の子孫は不幸になる運命なのだ。緩やかに、それでいて複利的に。統計的な証明。統計は、あんまり嘘はつかない。嘘をつくのは物書きの役割だ。

初夏の雨上がりを肴に

 雨は嫌いだ。だから、雨上がりはいい。特に、梅雨入り前、初夏の雨上がりは最高だ。25度を優に超える日々、少しずつぼくたちに夏の脅威の片鱗を与え、記憶からその恐怖と絶望を思い起こさせるまだ乾いた暑さ。これから5度以上気温が上がって、そこに湿度という悪魔も手を貸してくると思うと、途方に暮れる。  だからこそ、5月末の雨上がりはいい。まず、雨上がりがいい。今日のように朝から晩まで降り続けた日の雨上がりの夜は至高。嫌がらせのようにしとしとと降り続けた雨がないだけで、その変化に小さな

公平な世界はあり得るか

 不公平な世界だな、とつくづく思う。身長はそれほど高くないし、顔も良く言っても中の上。良く言ってもね。つまり中の下。関西人は、盛ることで生きながらえる。おかんが「お母さんもう寝るで」っていう宣告をしたにも関わらず、リビングで1ミリも教養のつかなそうなバラエティをつけているのを見て「盛る」を学ぶ。  背は高くないと書いたが、その中でも足が短い。背高くないのに足が短いとはどういうことだ。バランスがおかしいだろう。小4くらいまでは、座高が高いことを嬉々として友人に話したが、5年生