卵とニワトリ、どっちが先かなんて結局どうでもいい

※この記事を書いた時は、常体で書きたい気分だったと思われます。見逃してやってください。


自転車を漕ぎながら空を見上げると、鳥の群れが列を成して飛んでいた。その光景を見て私は思った。

「ブルーインパルスやん!」

人の感想に良いも悪いもないので、この感想は間違いではない。最も、本当にブルーインパルスに見えたのである。

しかし、この感想はどこか少しおかしい。

鳥に対してブルーインパルスみたいだと言うのは、失礼ではないかという話だ。

鳥とブルーインパルス、どちらが先か。

どう考えても鳥が先である。
鳥がブルーインパルスに憧れたわけが無い。

🐦「あの飛行機の飛び方イケてる!俺たちも真似しよう!」
なんてことはない。少し残念だが。

卵とニワトリ、どっちが先?

どちらが先か論争で、最も有名なのは、卵とニワトリではないだろうか。

卵からニワトリは生まれる。しかし、ニワトリから卵は産まれる。どちらが先に生まれたのか?

この議題には決着が着いていない。一応、生物学的には卵が先という答えがあるらしいが、考え方次第ではニワトリが先になるようだ。

私はニワトリが先ではないかと考えている。卵を見て「ニワトリの卵だ!」と判断することはニワトリがいなければできない。となれば、初めに「こいつニワトリだ!」と名付けることがないと、ニワトリの卵も存在しないのだ。

熱弁するほどのことでは無い。タイトルにもある通り、結局どっちでもよいと思っている。これは考察することに意味がある議題だ。

ものと言葉、どっちが先?

では、ものと言葉はどちらが先だろうか。私は大半の場合、ものが先ではないかと考える。例えば、空は「空」という言葉が生まれる前から存在している空間であろう。

概念と言葉、どっちが先?

ではでは、概念と言葉はどちらが先だろうか。これは考察しがいがありそうだ。

例えば、「感謝」について。
人に感謝する気持ちやもののありがたみを感じる心は、現代では皆の中に、当たり前のように存在する。
ただ、それは「感謝」「ありがとう」などの言葉によって説明され、確立されているのではないだろうか。これらの言葉を使わずして、感謝の気持ちを説明するのは難しい。では、このような言葉が生まれる前はどのようにして、感謝を捉えていたのだろうか。

私は、捉えることさえできなかったのではないかと考える。感謝の概念がそもそも存在せず、気にも止めなかったのではないだろうか。

ある時、どこかの誰かが、人に何かをやって貰った時、「うわ~胸にジ~ンと来るものがあるぜ!」と思ったのだろう。この概念に「感謝」「恩恵」などの名前をつけ、それが普及したと考えられる。

あれ、これ概念が先じゃね?

いや、でも少し待って欲しい。(←誰に言ってる?)
語源は概念が先だったかもしれない。はたまた、言葉が先でも、私にとっては結局どっちだって良い。

では、産まれたばかりの人間はどのようにして感謝の概念を覚えるのだろうか。

さすがに赤ん坊の頃から
👶「いや~いつも養ってもらってありがたいっすわ~」
と考える者はいない。(いるかもしれないが)

物心がついてから、
👵「人とものには感謝ってのをするんじゃぞ~」
と教わり、覚えるのではないだろうか。
となると、現代の人間の学習としては、言葉が先で、後から概念の意味を捉えるのではないだろうか。

おわりに

ここまで考察したが、ぜーんぶ私の憶測である。この記事に正しい事実なんてない。

本当のことは専門家に聞いたり調べたりしてくれ。

ただ、正しいかどうかはさておき、考察することには価値があると考える。
すぐ「わかんなーい」と言う人がいるが、「少しは自分で考えろ!」と言いたくなる。(尚、私も言われたことがある。)

私は考えられる人に価値を感じる。中身詰まってるな、という感じがする。すぐに分からないという人にはそれほど価値を感じない。すっからかんだな、という感じがする。

私は、私の思う価値のある人間になりたいと思う。だから私は、理想とする人間像に近づくために、考えることを怠らないようにしていきたい。

日頃、くだらない記事しか書かない奴が言うことではないのかもしれないが。

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