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私の友達はこの記事を読まないでください

子供の頃、親から「友達と遊びなさい!」とよく叱られていました。

小6の頃は、学期の目標を「友達と遊ぶ」と定めたり、「そろそろ遊びの予定を入れよう」と意識的に友達と遊んだりしていました。

中高生の頃は、一人行動を好みすぎて叱られていました。

この遍歴から、私には友達がいないように思えるかもしれませんが、います。相手は私を友達と思っているかは定かではありませんが、私の思う私の友達は明確に沢山います。

本記事では、私の友達に対する考え方をまとめます。友達は読まないでほしい。

友達をジャンル分けしてしまう

大体の場合、友達は共通のコミュニティに所属することでできるのではないでしょうか。
学校、部活、サークル、習い事、バイトなど。
そこで仲良くなった人を友達とし、そのコミュニティが活動しない日に集まって何かに興じることが、「友達と遊ぶ」ということなのだと認識しています。

私は、コミュニティに所属し、仲の良い友達を作るところまでは恐らく普通の人と同じです。多分違うのはその先です。

コミュニティごとに友達をジャンル分けしてしまうのです。無意識に。

具体的に説明頑張ります。
学校でできた友達は"一緒に勉強する友達"です。勉強の場でできた友達との共通の目的は勉強することなので、一緒に授業を受ければ目的達成です。
部活及びサークルでできた友達は"一緒に活動する友達"です。その場で出会った子らは皆、集団が掲げる活動を目的に集まっているので、私と友達の関係は一緒に活動することです。
バイトの友達は"一緒に働く友達"です。金を稼ぐことを目的に集まったので、一緒に働く事で関係を保っています。

つまり、「コミュニティの目的を求めて集まった同士なのだから、それを共に遂行する仲間なのだろう?」という考えに無意識に陥ってしまうのです。

これ、ジャンル分けしたくてしているわけではないんです。勝手に脳が処理してしまいます。無駄なプログラム搭載です。だる。

"遊ぶ友達"に分類することは難しい

ここで、私の無意識のポンコツポイントを紹介します。
"遊ぶ友達"のジャンルに友達を入れにくいところです。

現在、存在するジャンルは"一緒に勉強する友達"、"一緒に活動する友達"、"一緒に働く友達"などがあります。これらのジャンルには人を入れやすいです。

問題は、これまで出会った全ての友達を大体この3ジャンルに分類してしまっていることです。脳が"遊ぶ友達"を設けたところで、新たな友達が属せない仕様になっています。最悪。

ただ、本当に"遊ぶ友達"のジャンルがゼロというわけではありません。今でも交流のある高校の同級生は例外になります。高校を卒業すれば"一緒に勉強する友達"の目的は破綻し、”遊ぶ友達”になるからです。

おわりに 並びに謝辞

私という人間の面倒臭さが浮き彫りになった記事でした。
ここまで胃もたれせず読めた人はいるのだろうか。拙い文章ですみません。

来年、社会人になったら"一緒に働く友達"しかできないのではないかと今からビビっています。友達すらできないかもしれません。

ところが、今はこんな面倒臭い私とも遊んでくれる、素晴らしい友達がいます。私の一方通行な思いかもしれませんが、数人書いてみます。

私の「ここ行きたい!」に全部付き合ってくれる謙虚なHちゃん。
夜遊びの概念が無かった私を夜遊びに連れ出してくれたサッカー部の人。
ご飯に誘ってくれたバイトの人たち(Mちゃん、Tちゃん、Hくん、Y)。
毎年コナンの映画見に行ってた高校の同級生(S、YP)。
などなど、まだまだいっぱいいます。サークルの子たちとかね。

私は友達のことを大尊敬しています。みんな、私にはない良い所を持っていて、こんな素敵な友達と一緒にいれて幸せです。これからも大切にして、仲良くしたいです。

あとは、私が"遊ぶ友達"のジャンルをがばがば設定にしておけばいいだけなんだけどな!


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