神様のなりそこない

LINE NEWSにて「いつか怪物になるわたしへ」を掲載しているアカウントは、おかき大明神ではありません

 それだけお伝えしようと思って来ました。こんにちは、おかき大明神です。ついでに正規版「いつか怪物になるわたしへ」も再公開しました。ここ以外にわたしが文章を公開した場はありません。

 以上です。読んでいただきありがとうございました。
 これより先はただの日記です。

おかきフライアウェイ


 抱えた恐怖を吐き出さなければやってられなくて、一週間くらいかけてひたすら文字を書いていた。公開したらバズった。出落ち感満載の名前に誰も突っ込んでくれないまま、文章だけがあれよあれよと拡散されていった。 

 インターネットに文章を公開することは、拡散も当然想定されるべきだ。
 しかし、この規模での拡散は予想できなかった。自分が祭り上げられる様を、あるいは冷やかな目で見られる様をリアルタイムで眺める羽目になるとは。反応は好意的なものが多かったので、余計に戸惑った。
 申し訳ないことに、わたしは自分の文章がわっしょいされる理由がよくわかっていなかった。自分より文章が上手な人はいくらでもいるし、深い内容を書く人はごまんといる。なぜ自分だったのだろう、と考えてみても答えは出ない。最初こそ共感者を得たようで嬉しかった拡散が、次第に得体の知れない流れへと変わっていく。理解できないものは、怖かった。
 
 埋め込んだミスチルの動画や歌詞は著作権違反なのでは、という思いもあり(後からJASRAC等調べると引用に違法性は無かった)わたしは記事を消した。
 あれはただの日記だから、書いた時点で完結している。付属の数字や感想に興味はあれど執着は無い。記事を消すと、鳴りやまない通知がさっぱり無くなり落ち着いた。わたしは「おかき大明神」を手放す代わりに平穏を取り戻した。しかし「あの変哲もない文章がどうしてバズる羽目になったのか」という疑問だけは、ずっと心に残っていた。


余白のダンス

 なんでおかきがバズったんだろうな、と考えていたわたしはおやつの時間に天啓を得た。余白だ。大事なのは余白と記憶なのだ。これだけではよくわからないと思うので順を追って説明する。

 わたしが書く文章は「わたし」というホールケーキを数等分したうちの一切れだ。
 だから「これがおかき大明神です」と出した一切れがガトーショコラだったとしても、文章作成者の「わたし」はガトーショコラじゃないかもしれない。ショートケーキの集合体かもしれない。あるいはケーキですらないかもしれない。だけど実際ガトーショコラを出された側は、見えない部分を感じた味で想像するしかない。この文章を書いた人はガトーショコラなんだなあ、と考えるのは当然のことだ。
 しかし「こんなに甘いなんて、さぞ多くの砂糖を使っているだろう。おかき大明神は健康に悪いガトーショコラだ」とか「チョコレートの産地はあそこかな。トータルいくらかかっているのかな」だとか、「あのお店で食べたものと似ているな」みたいな、食べたものから発展させて個人が思考するあれそれは、味の余白に馳せた想像の産物だ。
 
 経験や想像といったものが、一切れのガトーショコラを「自分が食べたガトーショコラの記録」として強化していく。過去に食べたおいしいチョコレート、自分へのごほうび、記念日の思い出、様々なものが噛み合ってケーキは唯一無二の味になる。
 同じものはこの世にひとつと存在しない。それでも、重ねてしまう瞬間はある。似たものを見かけた時、同じ要素を見つけた時。思い出の引き金はそのへんに転がっている。記憶と現実を結びつけるのは簡単なことだ。

 そう、だから例えば、気まぐれに読んだ文章にかつて親しんだ山月記が書いてあったら。そのへんにいそうなお局様がいたら。まさかのキャスターリンボがいたら。紐づく記憶が引き金を引いて、文章の余白に様々なものを映すだろう。
 つまりおかき大明神は、山月記やキャスターリンボといった強い味によって読み手の思い出や思考を引き出した結果、バズった。エピソードやキーワードの選択がたまたま強かった。と、結論を出したはいいものの、まだ腑に落ちない部分がある。だからもう少し考えてみた。
 
 

優しい観測者

 今になって思えば、おかき大明神は非常に読み手に恵まれた。好意的な拡散が多かったのだ。文章や感情を好意的にとらえてくれた人が、プラスの発言と共に拡散をしてくれた。
 文章の粗なんてすぐ見つかる。匿名のアカウントなら、強い言葉も気楽に使える。他人を責めることがあまりにも簡単な場所で、おかき大明神は勢いこそ持てど「炎上」とまでは行かないまま拡散され続けた。
 何も考えず選んだnoteという場所が良かったのかもしれない。これが違う場所だったら、また別の結果になっていたのかも。真偽は不明ながら、おかき大明神はやさしい力によってその名を1日2日twitterに轟かせることとなる。 

 コンテンツではなく拡散者の方に注目が集まるこの時代、何を言うか、ではなく「誰が言うか」も大切なことだ。普通に考えたらおかき大明神なんていう得体の知れないアカウントが書いた文章を読もうとは思わないはずなので、バズの根本に紹介者の言動や築かれた信頼があったことは間違いない。
 日記とはいえ、公開した文章に良い反応があると嬉しい。どれだけ熱量を込めた文章でも受け取る人間がいなければ壁に向けたドッヂボールだ。わたしの内側で煮凝りを作るだけだった感情は、観測者の手で新たな姿を得た。以下は優しい観測者たちへ向けた、おかきからのお礼です。

 あの文章を見つけてくれてありがとう。読んでくれてありがとう。長い文章だったでしょう。わたしにとっては恐怖に駆られた日記だったんだけど、読み手という鏡を得て、自分の感情にひとつの答えを貰えた気がします。きっとわたしは抗う自分を誰かに知ってほしかったんです。もうとっくに怪物で、どうしようもない生き物になっていたとしても、わたしが恐れ悩んだ日々がここにあったということを誰かに知ってほしかった。わたしなりに、少しでもよき人間であろうとしたことを誰かに認めてほしかった。それに気づいたのは、文章を書いて公開して、反応を貰ってからでした。
 手綱を離した文章は、他人の所有物になるだけだと思っていました。自分の余白から生まれるものに何の期待もしていなかった。ここは価値観の大海原、拡散の渦中なんて百害あって一利なし。そう思っていた自分は思いっきり殴り飛ばされました。予想もしない角度から感情が拾い上げられて、たった一言で救われる。荒波に揉まれなければ出会えもしなかった観測者が、一番欲しい言葉をくれた。涙が出そうになりました。見つけてくれてありがとう。読んでくれてありがとう。わたしの価値観では考えられなかった一利を教えてくれてありがとう。
 わたしが書いた文章は、その余白は、どんな味がしましたか。全ての人にやさしい文章なんて書けっこないけど、わたしを切り分けたあの一切れがあなたにとっておいしいケーキであるよう祈っています。

 以上、おかき大明神でした。
 ここで終われば綺麗な締めになると思いつつ、もう少し続ける。


教訓と種明かし


 文章が拡散されて驚いたのは、創作を疑う反応が少なかったことだ。これもnoteの特徴だろうか? 長い文章には「長くて読む気にならない」とか「創作お疲れ様です」みたいなフレーズが押し寄せるものだと思っていたけど、それは偏ったインターネット知見だった。
 嘘か本当か、と問われれば、嘘寄りの本当だと答える。友人との会話をそのまま引用した部分があるからだ。だから「何勝手に人のこと書いてんだよ」と言われても申し開きができないが、バズ後に友人と話をするとあたたかい言葉をかけてもらえた。気にせず好きにやりなよと背中を押してもらったり、こんなこと言ったっけ?と笑われたり。広い心に感謝すると同時に、友人の優しさにあぐらをかいて考えることを止めてはならない、と至極当たり前のことを思った。
 わたしが「このまま書いても大丈夫だろうな」と思っていても、当人からすれば「わたしと一対一のやりとりで話した内容を全世界に公開され、望んでもいない好き勝手な反応をされて、精神的苦痛を負った」という訴訟案件になってもおかしくない。面白い話や明るい話でも、友人たちが公開を良しとするかどうかは、確認しなければわからない。

 話は反れるが、わたしは中学生の時、好きな人をクラス全員に知られていた。わたしの秘めた恋心はみんなの「楽しいネタ」となって会話の中で消費された。隣のクラスの人も知ってた。だけど被害者はわたしだけじゃなくて他にもたくさんいたから、被害者同士で「隠したいこと広めるのはよくないよね」とめそめそしながら日々を過ごした。
 その後の人生においても、会話や関係の中で消費される個人というものを体験しながら生きてきた。理由はわかっていた。人間の生む関係性や物語は、おもしろい。だから大した思い入れもなく、わたしたちは他人の物語を消費する。

 楽しければ良いのか。「わたしが」大丈夫だと思えば良いのか。
 消費される痛みを知っているはずなのに、わたしの視点はいつしか消費する方へと傾いていた。友人とはいえ他人、価値観はわたしと同じじゃない。きっと大丈夫だろう、という安易な考えは捨てるべきだなあ、と痛感した。
 友人のひとりは「人間の体験から生まれない創作物なんて無い。会話を文章にするのが問題なら歌詞や絵はどうなる。例えばおかきの変な行動を勝手に呟いたらバズって数万RTされたとしたら、それはプライバシー侵害ということになるのか。個人の特定に繋がらないものを気にする理由がわからない」と言っていたものの、この度消費する側であったわたしが同じように「個人の特定に繋がらないから君との会話をネタにしました」と罪悪感なく言ってのけるのは何か違うような気がする。

 これは果たして考え過ぎなのか。セクハラやパワハラのように「相手が嫌がるかどうか」という主観的なものさしで考えるしかないんだろうけど、それならば猶更、承諾を得るという過程が重要になる気がする。堂々巡りに陥る中で、さらりと許してくれた友人たちに対する感謝が溢れる。君達はわたしの人間性と反比例するような良い奴だ。今度ごはん奢るね。

 他の登場人物に対しては消費の痛みを感じないのかい、という突っ込みが入りそうだけど、そのまま書いたら障りがあるな……というエピソードは大体原型が無いので大丈夫だ。わたしの周囲に書いた通りの人間は存在しない、と言い切ってしまえる。参考にしたあれそれを特定されないように、だけど話の筋や伝えたい事は消えないように、無い知恵を絞って考えた。
 文書を練り込む中で、人間、と言うより概念のようなあれそれを適当な代名詞に包んだ。マックの女子高生みたいな疑いやすい枕詞が無い分、ちょっとは本当っぽく読めただろうか。嘘を書くな馬鹿野郎と怒らないでほしい。だって本当のことを書いたらプライバシーの侵害で訴訟案件になってしまう。許してもらえる要素が何一つない。人間まわりはフェイクだらけだけど、わたしの感じたことや考えたことは嘘偽りのないありのままだし、彼ら彼女らは人間として実在しないだけで事実としては存在する。ということで、嘘か本当かと問われれば嘘寄りの本当、と答える。

 「人間として実在しないだけで事実としては存在する」これだけだと漠然としているので、ひとつ種明かしをする。
 時系列やエピソードを混ぜる中で生まれたもののひとつ、文中の「キャスターリンボ」は、大きな核となる奴がいくつか存在する。そのうちのひとつを仮にAとしよう。
 わたしはAと仲が良い。Aはどんな話でも聞いてくれる。良いことがあれば一緒に喜んでくれるし、毒を吐いた時には同じように毒で返してくれる。「実はあれ嫌いなんだよね……」みたいな人に言いづらい話も全部否定しないで聞いてくれて、「むしろ私も嫌いだったよ」とか言ってくれる。だからネガティブな話でいつまでも盛り上がっていられる。
 欠点を挙げるとすれば口が軽いこと。Aを相手に「内緒だよ」と言うのは馬鹿のやることだ。内緒ねって言ったから秘密にしてくれるだろう、とか甘い考えでいると、そのへんにいる皆に伝わってしまう。Aはそういう奴だ。
 文字に起こすと悪いことしか無いけど、Aは本当に良い奴だ。Aがいない生活なんて考えられない。ちょっと依存症に見えるだろうか、でもわたし以外にもそういう人は絶対にいる。
 Aの名前は、SNSだ。

 
神様のなりそこない

 「おかき大明神」のアカウントを使い続けることは、わたしにとって悪手だ。
 アカウントを削除したままLINE NEWSの転載(あるいはなりすまし?)に言及せず、あんな文章があったねえと語られるインターネット昔話になったり、何者だったんだろうね~とほどよい想像をされている程度が平和だったと思う。日記を書きたいと思ったら、また使い捨ての名前を考えればいいだけ。
 褒められた記憶だけをほどよく反芻して生き、注目の集まったアカウントは消す。それが無難な行動だとわかりつつ愚かにも舞い戻った理由はひとつ。LINE NEWSに転載された文章に「おかき大明神」の名前が無かったからだ。
 えっこんなに面白くてチャーミングな名前を消します? けっこう自信作なのに? 長い文章読んだ後に意味わかんないけど語呂の良い名前が書いてあるってひと笑いポイントじゃないんですか? このセンスはわかっていただけない?

 腹が立った。
 このまま「名無しの文章」としてお綺麗に昇華されるかもしれない自分の文章がむかついた。させねえよ、お前深いこと言ってるっぽいけど所詮おかき大明神だろ? 突っ込んでくれる人全然いなかったけどおもしろネーム出落ち枠じゃん。名前という一番の目玉を失ってるくせにちゃっかり拡散されてんじゃないよ。 
 名前なんて無い方が、フリー素材みたいな扱いの方が、書き手の情報が無い分だけ文章の力のみで内容を受け取ってもらえるかもしれない。検索しても情報が出ないアカウントが深そうなことを言っていれば、ミステリアス感が増して余計に心に残るかもしれない。そうして誰かの救いになって、拠り所になれたかもしれない。名前に大明神とかつけた身だしそういうインターネット神様みたいなムーブをとってもいいかな、なんて一瞬考えてみたけどやっぱり嫌だった。
 Twitterでフォロワーに「面白い名前だろ、笑えよ」と当り散らす前からずっと、この名前はおもしろい空気と共にあるべきだと思っていた。たとえウケなくてもおかき大明神はわたしの考えた渾身のおもしろネームだ。真面目な名無しの神様にはなれない。だからこうして蛇足をつけて、汚い花火を上げている。

 しかし、仮にも大明神とか名乗っておきながら神様化を拒むなんて、名が体を表さないにもほどがある。そしてそもそも、わたしは「大明神」がどのような神様か知らない。完全に音だけで言葉を選んだ不敬者だ。このままでは名前負けどころか罰が当たる、せめて大明神とはどのようなものか知らなければ。今後神様ムーブチャンスを得た時は大明神っぽく振る舞った方がいいだろうか。おもしろ路線での使用はやっぱり不敬だろうか。そう思って検索した。


 だい‐みょうじん{‐ミヤウジン}【大明神】 
 
 1.神号の一。神名の下につけ、明神をさらに尊んでいう称。
 2.人名・事物名などの下につけ、それを神に見立て、強い願望や祈念を表す。親しみをこめたからかいの意で用いられることもある。
 
 (デジタル大辞泉より)


 意外と不敬ではなさそうなので、親しみをこめたからかいの意を推していきたい。
 
 今回の文章はさすがにバズらないだろう。面白味がないから。だけどここまで読んでくれたあなたには感謝の言葉を捧げたい。ありがとうこんなところまで。文章にも価値観にも合う合わないはあるけど、暇つぶしとして楽しく読んでくれたなら嬉しい。

 以上、今度こそ締めです。おかき大明神でした。 

いただいたサポートはおやつの購入費として胃袋に消えます。