自惚れていたようでした

恥を忍んで言うが、いわゆる才能型だと自負している。いや、器用貧乏の方が近いか。何をしても上の下くらいの出来で、「なんでもできるね」なんてのは聞き飽きたくらいである。完全に膨れ上がり私に根を下ろした自尊心は、そう簡単には抜けない。私は今後この形ない自信と共に生き、そして息が止まるまで面倒を見なければならない。

何でもこなすことのデメリットとして、何もこなしている気がしないのだ。きっとコツを掴むのが早い。成長速度と感性だけでのし上がったハリボテの私は、磨きあげられた貴方に憧れる。

習い事をさせてもらえなかった。本当はピアノも水泳もバレエも習いたかった。「そんなお金ないから」と小さく吐き捨てられた幼少期、他人が羨ましくて仕方がなかった。平等に機会が与えられたものにはめっぽう強く、テストはいつも満点だったし、運動会はリレーの選手だったし、習字の賞にも絵の賞にも選ばれた。私は持っている側だという自信と、持たされない側の立場だという自覚が芽生えた。

井の中の蛙大海を知らずとはよく言ったもので、何でも出来るはずの私は、“わりと”何でも出来る私になっていく。強みなどない、全て中途半端なのだから。ピアノを習っている同級生が合唱コンクールの伴奏を弾き始める度、私は私を嫌いになる。アルトパートのリーダーまで上りつめても、私はあの鍵盤に触れることは出来なかった。案外、次の日にはケロッとしていたりする。

高校に入って軽音楽部に入った。ギターとか弾けちゃったらかっこいいもんね。すぐ弾けた。コードとかは分からなかったけれど、右手のストロークは初めて音を鳴らした時から出来た。すごいねと言われて苦しくなった、出来ないから始めたかった。

あまりコードを覚えられなかったから、消去法でリードギターにした。リードは良かった、全然出来なくて悔しかったけれど。弾く度に上手になる感覚、技術を手に入れていく達成感。ゲームで経験値を得る感覚に近い。でもすぐに幽霊部員になって、今はあまり弾けなくなってしまった。

何の話だっけ。ああ、才能って話か。

結論からいうと私は才能型では無かったのかもしれない。人より少しバランス感覚が良くて、発想が柔らかいだけ。独創性などない、既存の練り直し。本当にすごい人たちに出会って、また私の形が変わる。私の成長は時間に比例しない。なんだかつまらなくなって、なんとなく煙草に火をつけた。


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