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わたしが愛だと誤解していたもの。

ノート新しくなってんて。
長らく書いていない間に。
久々に書こうと開いたら。
最近書いてなかったのは、書きたいことがあんまりないからです。
過去には、内側が思考でごちゃごちゃで嵐だったから、書かずにおれんかったんだけど、落ち着いてきたんです。
最近は、このままは嫌だ、変わりたいって心の叫びがあったから、その通り努力してます。信頼してるセラピストさんと一緒に。
ほんとうの愛、ほんとうの自分を感じて拡がっていく、どこにいても自分自身を感じていられるように。

ごちゃごちゃした頭の中をそのまま出した子どもの書き方から、少しずつ育ってきた大人の自我で書いてみます。

昨日、なるほどなーとわかったことがありました。
わたしは今まで愛とは何かを誤解していたんです。
わたしが愛だと思っていたものの正体は「かわいそう」という判断だったんです。
それは少し前、うちから帰っていく母を見送りながら「わたしはこの人をかわいそうだと思ってるんだなぁ」とぼんやり気づきました。
その時の感情は、さみしい、でした。胸の中心が冷たく濡れてたようで。
ずっと「かわいそうな母をお世話してあげなければならない」という思いが原動力だったんだと。
母もいつも誰かのことをかわいそうといってお世話していました。
そして母自身も常に困っていて、わたしに助けを求めていました。
わたしも、母から「あなたの○○がかわいそう」といわれてきました。
わたしたちは「かわいそう」で繋がっていたのです。
母から与えられるそれを、わたしは愛と誤解して受け取り、ロールモデルとしていたのです。
でも、かわいそうというのは個人的な判断で、相手を下に見る差別的な評価で、自分より下に置ける人だけを求める上下関係です。
頭で考えるつながりだから、こころが満たされないので冷たいです。
だからわたしは愛に怯えて、信頼できずにいました。
その方法が、繋がる術だったので、繋がりが怖かったです。
愛って胡散臭いやん…。人と繋がるっておそろしやん…。
ほんとは愛じゃないのにね。
母も、かわいそうと世話することが愛だと信じて疑っていません。
そして自分をかわいそうにして生きることに違和感がありません。
その誤解が純粋すぎて、わたしもずっと気づけませんでした。
だからこれは、おそらく母が始まりではなく、家系的なカルマでしょう。

でも、冷え切ったこころの寂しさが、内側から変わりたい!!という熱意を生み出しました。
その熱意のまま行動して、わたしはやっと誤解を解くことができたんです。
答えを見つけました。
昨日、信頼できるセラピストさんと一緒に、この事実を見つけたときは、目から鱗がバリバリにはがれました。鱗は瓶底メガネぐらいの厚さでした。

わたしはこれから、本当の愛で人と繋がっていくことを意図します。
「わたしが本当の愛から人と繋がった時、どんな感じになるかな」とイメージしたとき、
こころとこころのつながりだから、とても胸のあたりが温かくて、わたし自身も光っていたんです。
このイメージをした時、人と繋がりたいなぁ~って望みました。
どこまでも拡がっていったんです。
ああ、愛のつながりって、こんなに暖かくて、拡がり続けるものなんだって、満たされました。
生まれてきてからその経験はなかったけれど、イメージすれば浮かび上がるくらい、本当はずっと、共にあったんです。

それと同時に、いままで「かわいそう」で繋がっていたことに、出会った人々に、家族に、凄く深い反省と申し訳ない気持ちがあふれてきました。
間違っていたんです。これは愛じゃないという事が本当はできたのに。
わたし自身が決められたのに、その権威を手放して、母に委ねていました。
ほんとうにごめんなさい。
今はたっぷり反省中です。これも大切な過程です。
一歩ずつしっかりと、勇気をもって進んでいきます。

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