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自由に生きたらいいんだよ。と、世界がわたしにやさしく囁く。

アートTシャツ作りとか、夏のイベントや街のイベントに参加してみたいなって思うけど、ワークショップは自分たちだけでしたい娘は、大人数が苦手なので、参加できずにいます。

いや、これは便乗というか、いいわけだね。大人数でわいわいするのが苦手なのはわたしも同じです。多分、私の方が苦手なんです。

でもそれに気づいたのは最近。

今までは、学校でも職場でも過剰適応して乗り切ってきました。

いつからなのかな。

覚えいているのは、小学校の扉を開ける前の憂鬱。

「今日一日をここで過ごす理由を何にしよう」と考えていたこと。

たとえば、昨日休んだ友だちが、今日は登校するだろうから、その子に会うため、とか。給食を食べたいから、とか。

雨の日に、リノリウムの床が黒く汚れて、バレーシューズの足跡だらけだったのが、とても苦手だったこと。

湿気でこもる教室の空気と、その匂い。

やればやるだけ自分が何も知らない人間のような気持になっていた学習。

不快だったそれらを、全部、そう感じないように蓋をして生きてきたこと。

だけど、時の経過とともに、一つ一つ、紐解かれていきます。

最近、娘たちと一緒にいるときだけ、無性にイライラして、周りにねちっこく当たってしまうのだけど、不本意だから解決しようと、自問自答した。

その答えは、たった一言「お母さんの手伝いしてくれる?」でした。

子どもの頃は、両親が共働きだったので、手伝うことが当たり前で、自分の役割も振り当てられていました。

今、私は仕事をしていないので、誰かに頼みづらく、全部自分でやって結果的におつかれさんだった。

気楽に好きなことをしてほしいと娘たちに願いながら、そうできる娘たちが憎らしかったこと。

自らの自由を奪ったのは自分だから、自業自得だし、とも思ってきたけど、それでは何も変わらない。今、この環境で不具合があるなら、何をすればよいのかと世界に問いかける。

そうすると、世界は「自由に生きていいんだよ」と優しく囁いてくれる。

どんなことにも、どんな感情にも意味がある。

手伝いは大事なことだし当たり前のことだし、その結果、家事能力も身に着いたから、いいことばかりだし。

だけど、もしあの時、学校がしんどいから休みたい、とか。

お手伝いがしんどいから今日は休みたい、とか、わたしに言えたら。

不快な気持ちも、ちゃんと掬い上げられていたら。

どうなっていたかな。

そんなことを想ってはいけないと言われたことはない、楽しい時間だってたくさんあった。けど、不快感情を否定して、目の前のことを楽しもうと過剰適応してきた結果が今で。

何が何だかわからなくなっている。

だけど、それでも生きていく。

最近、新しい出会いの方たちとお話をする機会があって、その内容がとても自由だったことや、見た映画が世界より自分を優先していいのだというメッセージだったことが立て重なっています。

もっと、調和する絵の具の中に、わたしという色を足していく。

「お手伝いして」って言って、娘たちが食器洗いとお風呂掃除をしてくれた時、からだと心がパーッと軽くなって輝いたのが自分でもわかりました。

娘たちも「結構楽しかったよ」と、喜んでいました。

暮らしを変えるって、こんなに簡単なことなんだな。

あ、足の調子、だいぶ良くなってきました。出会う方たちがみんな、気にかけてくれます。本当にありがとうございます。


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