嫌われていたくはない。
あー、気づいてしまった。
わたしって知らない間に嫌われることあるんですよ。
多々あったんです。
仲がいいと思ってた友達に「あんたといると気を遣う」と言われたこともあります。それはまぁまぁ傷ついたけど、こういうことよく言われました。
知らない間にいじめられてたり、知らない間にハブられてたり。
でも靴に砂を詰められても「小人さんかな?」と思える小学5年生だったのでなんとかなってたんですけどね。
数年後に「あの頃っていじめられてたんだ」って気づくので、落ち込み時差が発生するっていう。
なんでかなって思ったんですけど、答えは簡単ですよ。
好かれたら怖いんですよ…。
好印象を持ってもらえるように、愛想良くニコニコとはしているけど、心の距離は1kmです。
なんで怖いかって、もし好かれたら、見返りを求められる。
あなたを愛している私の要求に応えてと暗に言われるのが苦痛だからです。
このコントロールする愛情がどこからが始まりかって、ここはシンプルに母親といいたいところですが、そこだけかどうかはわかりません。
至るところにあるからです。
愛情の対価を求めることが、この社会では今のところ当たり前みたいです。
でもその正体は、エネルギー搾取です。
相手の生きる力を奪う行為です。目に見えていたら罪深いです。
捧げている体をして、正体は奪っているんです。
言ってることとやってることが違うから混乱します。
わたしは、好かれることから逃げてきました。
だから、娘たちが愛情を示してくれても、なかなか返せずにいました。
それでもラテン系の長女は一日寝たら全部忘れて毎日愛情を示してくれる。
頑張り屋さんの次女は、私の気持ちを最優先に考えてくれる。
血のつながりもなんもない夫に至っては、立ち振る舞いが武士なんで一見わかりにくいけど絶対嫁の希望叶えるマンです。
人を愛することに迷いがない人たちからしたら、当たり前のこれらが私は最近まで怖くてたまらず、信じ切れずにいました。
ちなみに、自分自身の愛情は信じてます。えっどういうこと?
相手からは搾取されたらたまらんと思ってるのに、自分は搾取しない愛情できるって自信あるってこと?
まぁ~なんて高飛車なんでしょう。
そんな万能なわけない。
だから自分の中に、相手をコントロールしよう、搾取しようとする意志に気づくたびに、落ち込んでました。
あー、そうか、怖いのは、要するに同族嫌悪もあったね。
搾取したいと願う心の醜さに気づいていたんだね。
でもね、残念ながら。そう。
全く持って、私は万能ではない。
わたしは別に立派じゃない。選ばれし民でもない。
こんだけ愛がどうだと書いておきながら、愛されることに怯えるかわいいやつなんです。
勿論、わたしも同じように、人から奪おうとする意志があるんです。
そうか。だから。あーそうか。つまり。
愛されることが怖いというのは、愛することが怖いってことだ。
その正体がわかると、愛さえることが怖くなくなってきました。
愛されるのが怖いというのは、不完全な自分を認めるのが怖かったのをごまかしていたってこと。
どちらかというと、完全なふりをしている自分のお城を崩されるのが嫌だったてこと。
愛することで執着してしまうことが怖かったんだね。
愛が何かは知っている。
でも愛するってどういうことなんだろう?って。
完全にできなくてもいいんだよね。
なぜって、周りがどうであれ、わたしはわたしだから。
相手が向けてくる感情がしんどかった頃も、要は他人軸で生きていたね。
相手のせいにしてたから。
最近は、徐々に、好いてもらえることの幸せ、人に親切にしてもらえることがどれだけ心を温かくするかを経験しています。
人に何かをしてもらえるのは、とてもありがたいですね。
奇跡だと思います。
人に嫌われても全然いいな。なんか幸せなことじゃないですか。それだけ思ってもらえるのって。
別に何にもなくならないから、どれだけでも奪い合えばいいと思う。
とかいって、なんか問題起こったらおたおたするでしょうけどね。
なんか今まで、なんでこんなに自分を信じられなかったんかな。
別に今も信じてるわけじゃないけど、自分ってものに対するとらえ方が変わってきたかもしれない。
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