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悪意を認めたら起こること。

わたしはずっとうんざりしていた。
自分の中にある悪意を認めたくないあまりに、それを誰かや何かに転移して、その相手のせいにしている限り、私の目の前から争いごとがなくなることはない。
自分は悪意を持っている存在なんだと認め、その悪意を感じることで、現実が変わって行く。
善人でいたいし、人から愛されるためには善人であらねばならないと信じ込んでいる私は、わたし自身の悪意を認めることがなかなかできない。
けれど、それと同時に私はそんな自分に対して、心底うんざりもしている。
わたしには争いの傍観者でい続ける、というパターンがある。
傍観者が火に油を注ぐのはほんとうだなと自分自身の経験で感じる。
傍観者をやめて言及するとしても、自分の悪意を認めない限りは、また別の転移を起こしてしまうだけだ。

認めるしかない、どれだけ嫌でも…だってそれ以上に、わたしはうんざりしているから。
また繰り返してる。
また同じことになってる。
人や場所が変わってもまた。
何かが起こるたびに「またや」と思って全身の力が抜けるような、虚無感や罪悪感や、徒労感や…とてもむなしい気持ちに襲われる。

だから書いてみる。
偽りの善人をやめて、本質に沿って生きていきたいから。
わたしの傍観者という悪意の本質は、相手に真実を伝えないことで相手から成長する機会を「奪う」というもの。
わたしには「奪う」もしくは「与えない」という悪意がある。
その人の貴重な時間、その人の稼ぎ、その人の学ぶ権利や知る権利。
そいういった大切なものを奪うのはなぜかというと、その人より優位に立ちたいから。それは劣等感からきてて、奪わなければわたしには「ない」と思っているから。

自分を癒すというのは、悪意をなくすのではなく、自分の悪意を自らのものとして統合すること。そうすると、本当に不思議なんだけど、悪意を隠して善人の仮面を被っていた時よりも、自分自身の良さも感じられるようになる。
そして、悪意も、善意も同じように私は持っていることに気づく。
両方とも持っていることがとても自然だ。
わたしには、「支援する」っていう善意があって、周りの人が過ごしやすいように場を整えたり、手伝ったりするのが好きだ。
でも、悪意を認められなかったうちは、この善意もちょっとズレて発揮されてたんけど、自分の真実を認めると、いい感じにうまいこといったな?って思える時がある。
そんな時は嬉しくて、すごく幸せな気持ちになる。

生きることは本当に苦しくて、争いも絶えなくて、物質世界を抜け出した方がよほど楽に生きられるのにとずっと思っていたけど、確かにそれはそうなんだけど。
この肉体があって、生きている限り、生きている場所を楽園にできるかどうかは、自分次第なんだ。
自分と向き合う。自分自身を諦めずに、一生懸命向き合うことで自分の内側が変わって、それが叶うんだね。
外側はゼロだってことが、最近やっとわかってきた。

最近は、間違えることや苦しみが恐ろしくなくなった。
正しさとは人それぞれで、わたし自身が把握できる
のは私自身の内側だけ。
まだまだこれから、自分自身が気づいていない悪意がたくさんあるけれど、認めることを恐れていない。
それを認めるたびに、自分の善意ひいては才能に気づいていけるんだから、楽しみ。

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