「承認されたい」という枯れた湖

私は時々、皆「認められるという水」枯渇していていて、
お互いに嘘の水を注ぎ合ってると感じる時がある。

「うち、全然あかんねん」
「えー○○ちゃんは、めっちゃ頑張ってるよ」
「ほんま?全然やで…」
「ほんまやで!いつもすごいなって思ってる!」
「ありがとう。うちも××ちゃんのことすごいと思ってる」
「え、ほんま?なんで」
「だってめっちゃ優しいもん」
「ほんま?うれしい」

あなたは何のために頑張るの?と聞いて
「周りに認められたいから」なんて言う人を見て胸が苦しくなる。

そこに、いくら水をいれてもその湖には水が張り続けることはない。
水が張れるたびに、その地面はひび割れ瞬く間に水を地面に吸い込んでいく。

我々は水がなくなり、また水を求める。
そのうち、水を手に入れるには他人の思考に従順にすることが簡単であると気づく。
そして、水が手に入り、どんどんと地面は水を吸うスピードを速めていく。

私はたまに、「私は優しい」と周りに言う事がある。
周りが私の気遣いや、考えに気づいていないような気がするから。
「私は優しいと思うよ。○○ちゃんの自己分析に4時間も付き合ってあげてるんやから。あー優し。」と冗談交じりに言う。

文字にするとなかなか、うっとおしい奴だが「単純に相手の為だけに時間を使ってこれを当然と思われたくないし、さんざん4時間も相手を承認してやったんだから、ちょっとぐらいねぎらいの「認めてくれるの水」をくれたっていいじゃないか」という気持ちから出た言葉だった。

まぁ、その子は私の話や意図をあまり汲んでくれる人ではないので、また、自分の話をしだすのだけれど。
私は、なんだかんだ言って「認められないと」と思っているんだなぁと感じている。

私はもう少し我慢してもいいのかなぁと思う。我慢って良くないというけれど、自分が我慢することを美しいと思う我慢についてはむしろ健康的なのではないかと思った。
私が優しいという事をだれも分っていなくても、ちょっと我慢して、自分が思ってやろうと思う。

それが美しいかどうかも、正直ただの自己満足なのだけれど、自己を満足させるために生きるのも人生の1つの目標だろうし、もう少し、我慢をやってみようと思う。

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