性別が無い感覚の話

私は生物学上の性別は女なのですが、社会的位置付けや心や文化に性別が関係あるという感覚がなく、でも生物学上女の人間は何も言わないと社会的位置付けや心や文化もいわゆる女であると思われることが多く、周囲の認識と自分の認識がどんどん剥離していくのを感じたため、言っておこうと思います。

私は社会的位置付けや心や文化の性別というのは元からあるものではなくて、生まれた後に環境によって付与されていったものだと思っていて、世の中のほとんどのことは実は元々は性別と関係ないのではないかと思っています。
でもそれは私が心に性別が無いという感覚で、心に性別がある人の感覚を理解していないからそう思うだけかもしれなくて、元から心の性別というものがあることを完全に否定することはできません。

昔私は生物学上女だという理由で心も女だと思おうとしていたのですが、情報社会が発達する中で色々な情報を得、生物学上の性別と心の性別が一致しないことがあると知り、私は心が男なんだろうかと思っていた時期もあったのですが、更に心の性別が無いという自認の存在を知り、私にはそれが一番しっくりくると思いました。

今は心の性別に関しては無いという自認で、生物学上の性別に関しては、物理的にそうなので女であることには納得しています。色んな自認の人がいると思いますが、私に関してはもしかしたら性別に関係ないことが性別によって語られることに違和感を抱いているだけで、もし社会的位置付けや心や文化が性別によって語られない世の中になったら、シンプルに生物学上の性別だけを考慮して「私は女です。」と言えるのかもしれません。

私は現在性別に関係ない生き方をしており、私に関して性別で語れることはほとんどないと思っていて、なので私に関しての何かが性別で語られようとした時に違和感を感じてしまうのだと思います。

今まで「なんで女なのに将棋するの?」って何回も言われてきて、将棋をするしないに性別が関係あるのか疑問でした。
確かに将棋人口はいわゆる男の人が多くて、男の人が強いと言われているのですが、それは傾向であって個人に当てはめられることではないと思います。もし全ての男の人が将棋をしていて全ての女の人が将棋をしていなくて、全ての男の人が全ての女の人より強いのであれば、個人においてもそれが成立しますが、実際は色んな性別の人が将棋をしたりしなかったりしていて、強さも人それぞれな訳です。
また、母数や環境も違っていて、条件が揃えられていない中で取ったデータから言えることは何も無いです。私は大人数の思い込みにより世間がそちらへ寄っていくという現象があると思っているのですが、もし将棋人口の多くをいわゆる女の人が占めていて、女の人が強いとされる環境でのデータも取れたら、その場合は、強さの傾向に関しては何かが言えるのかもしれません。

「女の子同士だから仲がいいんだね。」「女の子だからお菓子を作るのが好きなんだね。」「女の人はリーチが短いから。」「女の人だからこれが得意なんだね。」「女の子だからスカート履いたら?」「女の子でお化粧しないのはおかしい。」など色んなことを言われてきましたが、性別関係なく気の合う人と合わない人がいますし、性別関係なくお菓子を作るのが好きな人とそうじゃない人がいますし、性別関係なく色んなリーチの人がいますし、性別関係なく色んな得意分野を持つ人がいますし、性別関係なく色んな装いの人がいていいと思います。
私がその人と仲いいだけ、私がお菓子を作るのが好きなだけ、私がリーチ短いだけ、私がそれを得意なだけ、私がスカートやお化粧があんまり好きじゃないからあんまり履かなかったりしなかったりするだけ、です。

役の中でお化粧をしたりスカートを履いたりするのはあんまり抵抗が無いです。私がスカートを履いたりお化粧したりしているのと私が演じているコントの中の人がスカートを履いたりお化粧したりしているのは意味が違って、それは私は絶対に人を殺したくないですが、ネタの中では人をいっぱい殺すのと一緒です。
また、その時私が演じているのは「女の人」ではなくて「スカートを履いたりお化粧したりしている人」です。

私は将棋と囲碁とジャンプと言語と理論とボルダリングと食べ物を作るのとお笑いが好きで、スカートとお化粧があまり好きじゃなくて、それは私の生まれ持った生物学上の性別とは関係ありません。
よろしくお願いします。

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