つくれぽ的エピソードWIKI
Facebookで、何年か前に投稿した写真が自動再生された。
考え事をするときは、『スマートノート』上でしている。だからノートのメモは、『スマートノート』の記法に従い、[右ページ中央から下へ]→[右ページ中央から上へ]→[左ページ上から下へ]→[あとは隙間へ]
という順番になる。
Facebookが自動再生した写真は、知人とワークショップをして、そのときに話したことを振り返りながら書いたときのメモだ。上述の通り、メモの記述は普通とは異なる順になっている。
メモの内容は、"パターンランゲージ"を使ってお互いの経験やエピソードを共有することについてだ。ワークショップなどで話されたエピソードが集まれば、パターンランゲージと同様、それは新たなエピソードの種になるかもしれない。そんなことを知人とは話した。
エピソードには属人性があり、パターンランゲージには抽象的な概念としての共有性がある。その行き戻りつが、個人の中にさらに新たなエピソードを生み出していく。そんなことも話した。
エピソードにせよ、概念にせよ、それが個人の中で結晶化するためには、結晶化のための種が必要だ。それぞれの人の中で思いは既に過飽和状態になっているのだ。だから、結晶化のための種や外部からのちょっとした振動があれば、それは具体的な形になる。
パターンランゲージは、結晶化した具体的なエピソードを抽象化させる種や触媒にもなり得る。だとすれば必要なのはエピソードを生成させる種ということになる。
パターンランゲージが触媒になり得るように、他の人のエピソードは自分の中のエピソードを表出させるきっかけにもなり得る。だとすれば、そのようなエピソードを収集するメカニズムとしてのエピソードWikiや、パターンランゲージを読んだり実行したりして生まれたエピソードのツクレポ化も可能かもしれない。
メモでは、好きなパターンランゲージとして選ばれたもの、選ばれなかったものの履歴を取っていくことについても少し書いている。
『スマートノート』は、なにかを考えるための私の標準的なやりかただ。本を読んだときの感想も同じようなプロセスでまとめている。
今回の内容については、2016年に自分がそんなことを考えたことはすっかり忘れていた。まぁ、考えることはストック型の作業ではなくフロー型の作業だと思うので、それはそれでよいのかもしれない。