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「ゼミや会議でうまくしゃべれないという悩みのために」:第一回「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません。


    「発言とか上手くできない」という永遠の悩みに対処するための「ゼミ&会議」で沈黙に陥ることを避けるための「心がけマニュアル」をお伝えします。「これは使える」と思われたら、この問題で縮こまっている人たちに知らせてあげて下さい。そして、これを読んで気がついたことがあれば、私に教えて下さい。

<身に付いてしまった心の習慣:不幸な言葉「発言」>
 ニッポン人は皆おしゃべりは大好きですが、発言はしません。「何か発言はありますか?」「・・・(シィーン)」「それでは終わります」「(即座に)ガヤガヤガヤ・・・」これが私たちの社会の一般的特徴のひとつです。
 そもそも「発言」という日本語に含まれたニュアンスは、英語で言う ”Saying”や”mention”とはいささか異なる「大胆にも言ってしまった取り返しのつかないこと」という暗く切迫したものです。だから、ニッポン人にとっては、本音は「本当は発言なんかしないで沈黙を保っていた方が身のためだし、余計なこと言って後で責任取らなきゃならなくなったら目も当てられない」とか、もうそういうものです。
 「問題発言」「トンデモ発言」「差別発言」「傲慢発言」といったネガティヴな言葉は一般的かつ溢れていますが、「顕彰発言」や「名誉発言」「謙虚発言」といったポジティヴな表現は全くといって良いほど使われません。皮肉なことに「勇気ある発言」という言葉は良く使われていて、これはポジティヴな意味なのでしょうが、ここからも「発言するのは大変なこと」というニュアンスが裏付けられてしまいます。

 不幸な言葉、「発言」です。

 どうしてこうなってしまうのでしょうか?ここにはどうにも強い思い込みがあるような気がします。それは、「人様の前でもの言う時には、それなりの立派なことを言わなきゃならない」という、大変肩に力の入った、発言することを特別な行為だと思い込んだ、何かに怯えるような態度です。
 もちろん不特定多数の人々の前で何か公的な発言をすることは、さほど軽いものではありません。その意味では、めったなことを発言しちゃいけないという理屈は正しいし、公的発言には本当に慎重であるべきだという一般的規範にも異論はありません(為政者によるデマや嘘が溢れる今日、特にそう思います)。
 しかし、もしそうだとしても、それでは人間はいつものを言う作法を身に付けるのでしょうか?どんな所へ来てもいつもこうやってこわばり続けてい流のでしょうか?それではごく自然に言葉を発する習慣を身に付けられません。
 実は、この「こわばり病」はもう永いこと日本中に蔓延していますからなかなか治らないのです。そして、老若男女みんなこの症状に陥ってしまった原因は、みんな日本の学校に通ったからという面が強いのです。

<「発言≠答えを言う」:失敗を極度に恐れるメンタリティ> 
 もう自分自身半世紀も学校という所に関わる人生ですからわかりますが、実は学校という所は、本来緊張するところではなく幸運な所なのです。何しろ、いくら失敗してもよく、失敗すると「ナイストライ!」と褒められ、かつ失敗しないと何も得られない、チャンスを与え続けてくれる有難い場所なのです。
 「失敗するとアホの烙印を押されるんじゃないか?』と、学校を常に緊張を強いられる所と決めつけてビクビクしているみなさん。もし失敗を咎められたら「ここは企業じゃないんですから、大目に見て下さいよ」と言っておけばいいんです(企業だって、本当に発言の責任をとって詰め腹を切らされる場面は役員会のような最高意思決定の場だけです)。
 だいたい、学生のすることを「失敗」などと評価する教員は、もう地底レベルの教員ですから、悪いのは貴方ではなく教員です。

 大学の少人数導入授業では、課題図書の内容を再現する報告が済んで、それに対するコメントを数人にしてもらい、議論しあうべき基本素材がまな板の上に出た所で、場を展開させるために発言を促します。

「さて、テキストはこんなことが書かれていますが、どうでしょうか?コメントしてみてください」。

 ところが「コメントを」と促すと、ほとんどの学生は黙り込んでしまいます。「○○君、どう?」とつっついてみると、あのウルトラ定番の言葉が返ってきます。

「・・・、えーと、自分まだ考えとかまとまってないんでぇ」。

 「またかよ」です。もう判で押したように全く寸分違わぬリアクションです。この商売を始めたころからもう何十年もです。
 何かすっかりと出来上がった完成品を提出しなければいけないと相変わらず誤解をしているのです。「まとまっていないこと」(そもそもこの「まとまっている」という言葉が意味不明でしょ?)を言ったらいけないと思っているふしがあります。いったいどうして、みんな一様にそんな誤解をするようになってしまったのでしょうか?
 この誤解を生み出させたのは、12年間の教室で身に付けた切ない心の習慣なのです。

「発言するとは、先生に尋ねられた質問に対して、ただひとつの回答を首尾よく言ってみせることなのだ」という思いこみです。

 子供の頃から、教室では先生が尋ねるやり方はいつもこうでした。

「この答がわかる人は手を挙げて!」

 つまり、コメントするということは、「答を言うこと」なのだと思っていて、それを身体レベルまで身に付けて大学までやって来てしまうのです。しかし、もし学びの場での発言やコメントというものがすべて、「完成した答の提出」だとするならば、その場はすべて死のような沈黙の支配する場となってしまうでしょう。学びの世界には完成した解答など存在しないからです。答えとは、例外なくすべて「暫定的なもの」だからです。

 このままでは先に進むことはできません。とにかく「すべての発言は未完成なもの」として、「コメントすること」の内容の振り幅を広げなければなりません。

つづく。

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広島カープ愛あふれる政治学徒・教員(専修大学法学部)・物書き。暮らしで見聞きしたデータ全てで「地べた目線の政治学/デモクラシー」を模索し、地域密着人生。Twitter : @ganaha22 FB: http://facebook.com/Okadakenji