日本の肉用牛生産方式の課題
昨年(令和5年)7月6日、国連食糧農業機関(FAO)は兵庫美方地域の「人と牛が共生する美方地域の伝統的但馬牛飼育システム」を世界農業遺産に認定しました。
私はこの地域の生まれで、このニュースに接したとき、喜びより先に「ウソ?!」という何とも異様な思いに駆られました。
今の但馬地方の肉牛生産方式は当時の方式とは全く異なり、海外から輸入した穀物主体の「濃厚飼料」を大量に与え、丸々と太らせ、半ば病気の牛の状態に仕上げています。
1950年代から1960年代の育て方は、血統管理のしっかりした牛に干し草とか米糠等の「粗飼料」を与え育てていましたので、肉質は柔らかい赤身肉で、牛肉本来の味の非常に旨い肉でした。
当時、兵庫県北部の但馬地方では「蔓(つる)」と言われる「血統」が重視されており、多くの「血統」が登録されていましたが、中でも有名な血統が「ふき蔓」と「あつた蔓」で、前者は私の故郷である兵庫県新温泉町の「照来地区」で繁殖している血統です。当然私も子供の頃は牛の群れの中で過ごしました。
1958年には「ふき蔓牛組合(初代組合長:岡田喜一)」が正式に結成され、NHKにも放映されました。
その当時名牛として活躍したのが「茂福号(1948.3.3生)」(写真1)です。
「茂福号」は1959年に11歳の生涯を閉じ、現在もなお、但馬牧場公園に石碑(写真2)と年譜(写真3)が残されています。
但馬牛の飼養頭数の減少と肉牛産業の衰退
正式な数値はありませんが、新温泉町「照来地区」での飼養頭数は1955年前後がピークであったと伝えられており、当時は1家に1、2頭の但馬牛が農耕用兼繁殖用として飼われていました。
記録されているデータで見た場合、1960年に2430頭(飼養戸数1940戸)であったものが、昨年には762頭(飼養戸数45戸)にまで減少しています。飼養頭数で1/3、飼養戸数で1/43です。
和牛のルーツとも言われる但馬牛がなぜこのようにみじめな状態になったのか?
一般的によく言われているのは、昔は農耕用に使われていたが、農業の機械化とともに必要が無くなったからという言い訳です。
これは一側面であり原因の全てではありません。
なぜなら、但馬牛は農耕用ばかりでなく、昔から貴重な食料として農家に根付いていました。つまり、肉用牛として事業の拡大を図れば肉質そのものは日本最高級レベルでしたから、いくらでも拡大できたと思います。
ではなぜその道を踏み外したのか?
私は、牛肉を牛脂でベトベトの「霜降り牛肉」が最高に旨いという方向に導いた肉牛生産業界の飼養方針に起因するものと考えています。つまり牛肉を普段の肉食の食材として考えるのではなく、大衆の食卓を無視した特殊な食材という方向に舵を切ったことにあります。
肉質の基準は1916年から運用されていますが、現在の基準になったのは1965年からです。
内容は「霜降り」の状態と「歩留まり」の状態の2種類の評価で、前者は1~5までの5段階、後者はAからEまでの5ランクに分け、最高級は「5A」、最低は「1E」として肉質の評価基準を設定し、必然的に値段が決まってしまう結果に導かれました。
当然畜産農家(組合)は「5A」を目指して改善していくことになります。
結果として、脂ぎったぶくぶく太った牛に育てていくことになります。
消費者からみれば、高いだけで本来の牛肉の旨みのない牛肉を食べることになり、結果として輸入牛肉で十分だという気持ちになります。
このようにして日本の肉牛生産業界は衰退していきました。
日本一の和牛の里に生まれて育った者として残念でなりません。
中国の牛を昔の但馬牛飼育方式で育ててみた
子どもの頃食べた牛肉の味は今でも忘れられず、中国に滞在していた当時、中国の牛で昔の但馬牛のような飼養方式で生産すればきっと同じような肉質が得られるのではないか思い、湖南省のある畜産農家に協力してもらい実験してみました。
湖南省の地元の牛は黄牛とよばれる小型の牛ですが、米国でよく食べられているアンガス牛との交雑種も多く飼われています。
写真4が黄牛、写真5がアンガス牛との交雑種で、生後半年から10ヶ月の子牛(雄牛)を合計15頭選び、子どもの頃の薄い記憶を蘇らせながら、昔風の但馬牛飼育方式で育ててみました。
余談ですがアンガス牛は全身が黒くて頭が丸く角のない牛で、写真5はおもしろいぐらい両親の特徴を受けついでいます。(笑)
まず、雄牛は肉質が硬くなるので、日本では10ヶ月零前後に「去勢」と言って、睾丸を切り取ります。
写真6はその手術を行っている光景で、地元の獣医さんがやってくれました。中国にはそういう習慣はありませんので、私が子供の頃を思い出しながら指導しました。
余談ですが、神戸牛は但馬牛の雄牛を肥育していますので、全て去勢します。松坂牛は但馬牛の雌牛を肥育していますのでそのまま肥育します。
その後の私の役目は毎月1回体重を計測し、増体重に応じて飼料の配合を設計することでした。
写真7は毎月1回の飼料の配合表の例です。配合表で2種類あるのは、アンガス交雑種と黄牛とでは増体重が異なるためで、アンガス交雑種は毎月黄牛の1.6倍程度増体します。
また、飼料はできるだけ昔与えていた飼料に近いものを与えるよう配慮していましたが、その地方の植物は日本と異なりますので、エネルギー量とか栄養素を考えて適度に合わせる方向で設計しました。
写真8はその地方で一般的に牛の飼料としているトウモロコシです。茎も葉も実も全てを同時に機械で裁断し袋詰めして少し発酵させて食べさせています。本来この飼料はビタミンAの素になるβカロチンを多く含むため適度な脂質の成長には障害となる栄養素ですので、屠畜する数ヶ月前からは与えないようにしました。
そして、約1年後、22ヶ月の月齢になったころ、いよいよ屠畜して肉質を確認してみました。
写真9がヒレという部位で牛肉の部位の中では最も肉質が良いと評価されている部位です。
1年間かわいがって育ててきた牛だけに、屠畜の際には何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、結果は思った以上に柔らかく最高の旨味でした。昔子供の頃食べた赤肉のうまみを再現してくれた牛に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
この貴重な実験により、1965年ごろから始まった日本の「霜降り」と「歩留まり」指向の極端な生産方式が、日本の肉牛生産を衰退させていった原因であることを改めて実感しました。
日本人は国産牛肉は高いものと思い込んでいます。
日本で肉牛生産に携わっている人なら、私の配合表を見て飼料コストが半分以下になると直感されると思いますが、このことがまさしく日本の畜産業が競争力を失った原因です。
おそらくこういう実験は世界で初めてでしょうし、今後も為されないと思います。
すごく残念に思いますが、今後はチャンスがあれば昔の旨い、しかも大衆的なコストで、赤身牛肉を日本で生産したいと考えています。
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