見出し画像

「100日後に死ぬワニ」の違和感

  言うまでもなく,少し前にSNSで話題になり,注目を集めた作品。この作品そのものがどうこうということではなく,これほどまでに人気になったことに対する違和感がどうしてもぬぐえない。そのことについて書こうと思う。
 最初にことわっておくが,これはあくまでも私個人の感覚であり,作品そのものに対する評価でもなければ,この作品が好きだという人への批判でもない。自分のなかにある,違和感の中身を分析しているにすぎない。
 4コマ漫画の主人公のワニの日常を描いた作品。ただ普通と違うのはその4コマの冒頭に「死まであと○日」と記されていること。ワニ自身はもちろんそんなことは知らない。たくさんのtwitterのフォロワーに看取られるような形で100日目を迎える。その直後のコラボ云々で物議を醸したりもしたけれど,書きたいのはそのことではない。
 この作品に対する多くの人の反応と自分の感覚とのギャップが消化できないのである。

 このワニの話,100日後,あるいはそれより前に自分だって命が終わっているかもしれない,ということを少しも頭をよぎることのない(ようにみえる)空気感が私には合わないのだ。
 誰だって先のことはわからない。死ぬのは数時間後かもしれないし,何週間か,何十年も先かもしれない。どこかでそれに会うことはわかっているけれど,普段はそんなことは考えずに過ごしていて,何かの瞬間にふと頭をよぎったりする・・・というものではないかと思う。

 テレビドラマも映画も日常の延長線上にある,でも自分とは無縁に思える出来事を,私たちはある意味無責任に鑑賞する立場にある。そういう意味でいえば「100日目に死ぬワニ」だって同じことだ。サスペンスドラマの殺人事件だってまず普段そんな簡単には遭遇しない。それを画面の中に見ているのと,「いつ死ぬか」を見る側が知っていて当事者が知らないその日常を描いた作品を見ることにどんな違いがあるのだろうか。
 ドラマの中の出来事だって,少しは自分にふりかかることだってあるかもしれないが,これは「作り物なんだ」ということを頭の片隅に置いて見ている(と思う)。「100日目に死ぬワニ」は,その「自分のことではないんだ」という前提をあまりにも露骨に提示しているところにおそらく私の違和感がある。画面の中で見ている理不尽なことが少しは自分にふりかかるかも,という一種の緊張感とか恐れがあるから,その中でおこる嬉しいことや幸せな出来事も,所詮つくりものでも喜びに感じることができるのではないかと今回のことで改めて思った。

 ちなみに,この違和感は,私の中では,自分は安全なところにいて,逆らえない弱者をからかうような「いじり」と称される一部のバラエティ番組への嫌悪感にも通じるものがある。あのお笑いタレントの「コロナが明けたら風俗嬢云々」の発言も,下品とか女性差別とかよりもこの人自身が新型コロナの犠牲にならないことを前提でしゃべっているところが嫌なのだ。
 今の世の中に私のような感覚は少数派なのかもしれないけれど・・・変えようがない。見えているものと自分との関わりをそんなに簡単に断ち切ることはできない。きっとこれからもこんな感じで日々を過ごすのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?