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作中主体と作者のはなし

 短歌をはじめて3年が過ぎ,この春からなんと4年めに突入した。この文章は,1年前にあるところに出そうと思って書き始めたエッセイが長くなり過ぎて出さなかったものである。たまたま文書の整理をしていて見つけたのだけれど,今も思うところは変わっていないので今回おそるおそる出すことにした。
 日頃短歌の話題に接していると,ときどき,短歌の私性について話題になることがある。

 ぼくを癒やすきみの瞳の見る空は何色だろう ハーネスをひく

 これは,「うたの日」(http://utanohi.everyday.jp)に2017年11月28日に私が出した歌である。そのときにいただいたコメントからは,盲導犬を詠んだ歌だと解釈されたことがうかがえた。主体(もしかしたらそれは作者でもある)は視覚に障害があり,自分と生活をともにしている盲導犬への想いが詠まれていると。
 人は生活しているときに,うれしいことも悲しいことも,いろいろなことに出会う。その中で希有な(あまり表に出ない)悲しみを題材にした歌は,作中主体=作者という読みを招きやすい,あるいはそれを期待されやすいのかなとも思う。少し前にある新人賞やその候補作品が話題になったのもこのことが関係していたように思う。
 上の詠草について,私はいわゆる視覚障害では(今のところ)ないし,盲導犬も飼ってはいない。というのを聞いて不満に思う人は,もし,私の身近にそのような人がいて,その人の身になって詠んだ,と言えば納得するのだろうか。テレビで盲導犬と生活する人を見て,その人の身になって詠んだ,と言ったら?実体験でなくても,思考を駆使することによって自分とは別のひとの想いに寄り添うことはできるのだし,そこから歌を詠むこともできるはずである。
 ただ,これを実際に視覚障害の方が読んだときに,もし特別の感情が生まれるとしても今の私に推し量ることはできない。私自身は公にはしにくいけれども過去にかなりつらい体験もしているし,そのような体験を詠んだ歌を目にすることもある。そのときの感覚は神経を逆なでされる気分のときもあれば,まったくすんなりと心にしみる場合もあり,それはその時の私自身の状態によるものなのか,あるいは作品のいわゆる出来によるものなのかもわからない。個人的には,その悲劇を実体験した人がその題材を詠んだ歌を読んで不快になるのは,単に作者にとってノンフィクションかどうかだけではないような気がする。
 誰かも言っていたけれど,どこかでこれを読んだ人が不快になるかもしれない・・・ということを思い始めると多くの題材は詠めなくなってしまう。それを乗り越えるくらいのよい作品を生み出すことをめざしてゆくしかない。
 ちなみに,上にあげた詠草は,できあがった段階で盲導犬を詠んだ歌だと思う人がいることは予想したが,もともとは,犬の視覚が人のようには色を識別できないということにもとづいて作ったものである。ただ,作者の意図とはちがう読みが生まれることは短歌のおもしろさであり,良さの一つであると思っているので,個人的にはあまり歌の説明はしたくないほうである(が今回は特別)。 今回,タイトルに「短歌の」をつけなかったけれど,同じような問題は(扱われ方は違うにしても)きっとほかの文芸や創作でもありそうな気がする。

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