でち日報2024/03/27

我々世代が子供の頃みていた「アルフ」が、一週間限定で全話24時間配信しているのを、奥さんがずっと見てるので俺も見てしまった。吐きそうなくらい懐かしい

子どもの頃はピンとこなかった皮肉がわかる歳(しかしウィリーの年齢よりは若い)になった。

ずっと見ていられる、怠い面白さがある。祖父が寝ながら時代劇をずっと見ていたのはこの感覚によるものだったのかもしれない。だとしたら、意味と価値に疲れるという症状は、自分固有のものではなさそうだ。


「人新世の資本論」を読んで、なるほど晩年のマルクスが考えていたことはわかった。しかし、そこに「マルクス」の冠を乗せるのをやめたほうがいいな。と思った。そういう除去作業は別な人の仕事になりそうではあるが

かつ、やはり、不公平には新たな不公平を、邪悪にはさらなる邪悪をぶつけるという路線になるという確信を得た。地理に基づいた排他的な特権集団を資本主義に代替させることの、いったいどこが公平だと言うのか(まだ読んでる途中だから、ここからさらなる論理の発展があるのかもだが)

外部化の線引が新しくなること、つまりサステナブルな外部化の一定の効果はあるだろう。しかし、それに向けて善によって稼働できる人間は、既に恵まれた、限られた人間であるということ格差自体が、まるで資本の自己増殖と同様に同時に再生産されているという射程まで議論できないのであれば、部屋の中の象から目を背ける種類の不誠実さがあるように思われる。

コロナ禍を見よ。あくまで「2年間だけでは全然大した事なかった」という調査結果だけど

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行により、CO2等温室効果ガスや人為起源エアロゾル等の排出量は産業革命以降前年比で最も大きく減少している。

枠組みとか議論とかを、さらに是非をもぶっ飛ばして、二酸化炭素排出量の削減が不可能ではないことは示された。次に、これだけのラディカルな効果を、どうすれば犠牲を伴わず、かつ、一個人として起こす事ができるか?という超無謀なことを考えている。


考えている?自分が考えて考えつくようなことは、全て既に考えられているし、実践を通じて明らかになった課題を抱えているに違いない。

では意味のないことは?理解できない因果を、理解できないまま望ましい形で取り扱うには?その答えも既に多くの歴史の中で語られているが、原理的に理解されえないままで語られているし、理解しようとする態度も違う。

説明可能にすること、意味を主観から客観の地平に引きずり下ろすこと、このこと自体を疑うというトレンドが自分の中に来ている。したがってここに書かれている文字らしきものは、うめき声以上の意味を持たない。

人間が生きること、苦しむこと、ときに命を落とすこと自体は、意味ではない。意味がそこに作用することがあるというだけで、意味の汚染を躱しつづけるものがかならずある。

直観とも賭けとも違う、理解と説明を要しない何かを、しかしそのままでやることはできる。これは巧妙に黙り、方便を使い、極めて個人的に、共感と協力を頼みにしないまま、見かけ上の繰り返しが発生するようにする必要がある。


こうした態度を、より厳密にするには、「語り得るものについては全て語れなければならない」という、逆ウィトゲンシュタインみたいなことが求められてしまうし、それは当然に個人の限界を超える。

まあITによって多少緩和できるにしても、そこにある有限性を打倒せず、同時に無いもの扱いもせず、目的的に行動する以上、そうした態度はもはや、経験の少ないハッタリだけのコンサルタントのごまかしと、何が違うのだろうか?

要請に対する能力の、知識と行動の不足、その空白を、飢えとしてではなく自在な空間として、邪悪には恥を、正義には甘さを添えて、結果として踊りになっている

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