でち日報2024/03/25

Twitterに頼らずに日報を書くことを考え始めた。どれだけ参加人数が多くて、知り合いとの交流の要だとしても、マイクロブログサービスとは少しずつ距離をとっていくことが、自分のためであるように思われる。

追記:だからってこんな怪文書ばっかり書いてんじゃねえぞ!


蕩尽のうち、年相応ではないものが混ざっていたことを考える。同じだけ時間を無駄にするにしても、お金を無駄にするにしても、もっと別の投げ捨て方が可能なのではないか?それが誰かにとっては理不尽な幸福の殴打になりえるのではないか?

返礼の力を呼び起こす贈与は、既に経済性に染まっている。それよりもずっと前の贈与、共に生きるどころか、そもそもが同じ一つなのだから、富が流れない方がおかしいし、循環のしようがない(あるいは世代をゆうに超える規模の循環しかおこらない)贈与というものを実践する。これは広い意味で反社会的な行為ですらある

たとえば資本主義の行き詰まりや暴走というのは、単なる表層であって、その裏には、個体別の身体性に書き込まれたソースコードが、その数世代前から働きかけた社会と環境のフィードバックを受けた演算結果と、そんなふうに言語化なんかできるわけねえだろっていう永遠に謎の曖昧領域との相互作用によって生じたeventの連続体があると考えることができる。

そこに新しい社会主義をぶつけようとする発想は、そうした基盤まで遡っていない対処療法的なものであり、それだけでは、その人にとっても、俺にとっても、望ましい事態を招けないような気がしている。


贈与のうち、前経済性的なもの、互酬性以前の贈与の実践は、非常に難しい。厳密に実践できるはずもなく、どこかで見返りを求める心が生じることから目を背けられない。

それでよい。見返りが「あってもよい・なくてもよい」の境地であれば、完全な無為の贈与とは区別されつつ、現実的に可能である。資本主義はこれを投資の領域において言い当てている。

一度、邪悪や非人間性を通過することは、酩酊から豊穣を持ち帰るデュオニソスの天恵に似ている。この場合はなんという神が担当なのだろう?

邪悪は湯がくためにあるが、邪悪の方もおいそれと利用されてはくれず、人をいかに長く留め、茹で上がらせようとする。それはほとんど喜びを伴う。邪悪の抱く喜びが茹でられた人に伝播する。それを人は自らの喜びとみなす。

それでよい。主体は作用群から、限定されてやっと認識される。いわば約束事でしかない。しかし実存(使いづらい言葉だな)とフェイクは、いつでも転倒する準備ができている。ずっと走っているからだと思う。

多くの人が外部を想定していない、ということを考えていたが、そこには見えないようにされた外部があるだけで、想定していなかったわけではないということがわかってきた。想定しない、というのは結果的に意識できなくなった状態で、その手前には外部とみなすものへの軽蔑、コスト・カットがあった。人間の認知作用からして、受容した現実を情報に貶めることなしに、生命活動を実施することができない。


そこから、過剰にカットしていた部分を取り戻そうとする立場もあるのだと思うのだけど、それ自体ではなくて、やりすぎて、戻す。という運動自体が気になっている。これは悪しきものを「正す」のではない。という正義や公平性への疑いを含んでいる。


フェアネスは最大の狂気である。と言いたくなる時、それは理想を現実にぶつけることの巧妙な暴力が、最も力を帯びる時のことであって、そうした物語に陶酔することは趣味にとどめたい。あまりにトレンディすぎるので。不公平には新たな不公平を、邪悪には新たな邪悪をぶつける。その相克のあわいに安寧に似た100年があり、次の更新までに新たな邪悪、それはもはや単に運動体と呼ぶ方がよいような機構を過去から未来から、ちっぽけな個人が供儀によって召喚する。


カフェインが引いてきた。えーとつまり、要は、なんか…世界についてのいくつかのエッセンスを踏まえて、ゲームに参加することを通じてゲームを壊す…のではなく、もぬけの殻にすることを、企むことを省略して行う。これなら俺のような無能力者、低能力者にも可能なプレイングである。ということを、どこまで本当にできるか?ということを考えています。でちおを近所で遊ばせてから、仕事に戻ります。

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