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メタ認知という社会化された妄想

わたしの振る舞いが、他の人にどう映るか?を考えることは、ほとんど妄想と同じなのに、どうしてここまで社会的に効果を発揮するのだろう

ゲーム理論的に共有されること

他人の気持ちなど分かるはずないのに、世の中には配慮や思いやり、忖度やら暗黙の了解やら、阿吽の呼吸やら以心伝心やらが無数に跋扈している。

分かるはずのないことを、さも自明のごとく取り扱うとき、それを支えるものは妄想の類いである。

その妄想が個人の外側で力をもつ場面があるとすれば、それは妄想が他者と共有されたときだろうか。しかし、実体のない「共有」を支えるものもまた、根拠に乏しい妄想であると言わなければならない。

「共に同じものを有する」と、思い込んでいる。思い込み合っていると思い込む。そう思い込み続け合うことができる。

そうなって初めて妄想が社会的な力をもつのであれば、力とは妄想そのものよりもむしろ、①ある妄想を抱き②それをお互いに妄想する他者を前提する、という、妄想の重ねがけに発生しているのではないか?

自ら妄想しなくても良い

いや、ここには面白い逆説があって、「②それをお互いに妄想する他者を前提」さえすれば、本人が「①ある妄想を抱き」つづける必要がない。いっそのこと、両者ともに①の妄想を抱き続けなくてもよい。

上記はもったいぶった言い方だけど、要は「それはそういうものだ」と私たちが思うとき、妄想的には何事かを信じようとしないまま、しかし社会的な力には従う判断をしているということを言いたい。

だから①と②の重ねがけで力が発生するのではなくて、②が発生しさえすれば、それは社会的な力として個人に作用しうるという、なにかエクリチュールめいた事態が発生する。

取り残された人

すると今度は、②に到達することができない人が現れることになる。かつては自発的な①によって②を生成していたのが、その経路が絶たれてしまえば、いきなり「それはそういうもの」という跳躍を求められてしまう。

誰もがそうした社会的な跳躍のできる人間ではない。そうなると、取り残された人に必要なのは、必死に跳べ、跳ねろと励ますことではなく、①の内的妄想の発露ないしチューニングなのかもしれない。ということをぼんやりと考えている。

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