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人を救おうとすることの邪悪について

たとえば「自分が救われたように、他人にも救われてほしい」という願いに、何かが潜んでいないか?

ここまではまあ、いいとしても

こうなってくると再現性の問題になってくる。以下はゲスナーさんとの対話

ここでハッとした。直感的に「自分と同じように誰かを救いたい」路線はマズいという気がした。

その上で、やはり「自分と同じように誰かを救いたい」という強い気持ちが、自分の中で無視できない欲求であることも認める。

この欲求は、いったいどこから来ているのか?

理不尽で不条理な体験

俺は最初の就職が、本当にうまくいかなかった。どの部署にいっても仕事ができず8年たらい回しにされて退職した。

ただ、そこでひどい目に遭ったわけではなかった。産業医制度を使って脳と精神に異常がないか検査したり、部署のキャンプで寝てたら「あいつを本当にどうしたらいいかわからん」と上司たちが議論しているのが聞こえたり、別の上司は、俺の大学の先輩に直接相談までしていた。

つまりみんな真剣に、自分に対して取り組んでくれていた。だから誰に対して恨みの感情が一切なく、全てが自分の素質に関わる問題だと素直に思えた。

そこで今度は組織ではなく、小規模なチームで働くことを試した。たまたま退職のタイミングで起業する人とつながって、事務手続き全般を請け負った。

うまくいったのは開業までだった。いざオフィスに勤めると何もできない。結局、社長とケンカ別れして退職。それで自暴自棄になっていたところをインターネット(婉曲表現)に拾われて、今に至る。

納得したい

そんな自分の人生の10年分をやり直したい。それは不可能なので、次はうまくやりたい。次が無いならば、同じ状況で、同じ境遇で、苦しんでいる誰かを見つけ出して、その人を救いたい。

それが俺自身の過去を、書き換えることの代わりになるからだ。それが成就するとき、はじめて自分の体験した不幸を克服したことになる。それで自分は初めて、自分の体験に対して納得できる…納得したい…

ここだ。ここに邪悪さが潜んでいる。

救いたいから、まず不幸になってください

ことさらに終末を説く人、危機の到来を予言し喧伝する人たちは、その主張を裏付けて影響力を強くしようとした途端、暗に「本当に終末や危機がくること」や、その兆しを強く望んでいることになってしまう。

同様に、誰かを救いたいと強く願う人は、やがてその欲求を満たすために、暗に「誰かが不幸になる(救いを求める状態になる)こと」や、その兆しを強く求めるようになるだろう。

その願いの矛先が自分に向けば、おのれの不幸を再生産し、他人に向けば社会の不幸を再生産する。これは自然な道理である。

そもそもが「自分の欲求のために他人の存在を消費する」という態度であり、そのことに無自覚であったことも含めて、ここで改めたい。

再現とは違う納得を目指す

だから、「再現による克服」とは別の納得を選びたい。

自分のかつての不幸は、理不尽で不条理なものであり、それ以上でもそれ以下でもない。理由もない。それで良しとして切り離す。

少なくとも、もう一度立ち向かうためだけに、自ら不幸を招こうとはしない。そのために他人をダシに使うこともしない。

不条理な世界を選ぶ

これは「克服」よりも厳しい態度かもしれない。人間にとって(私にとって)何事かが理由をもたないままであるということは、とかく耐え難い。

他人と生きるのは一人では生きられないから。死ぬことは生物の必然だから。争いは人がお互いに理解し得ないから。宇宙はビッグバンによって生まれ、社会は隠れた権力者たちに支配され、戒律を守った者だけが必ず成仏する。

理由のみえない不条理な世界に生きるくらいなら、いっそのこと架空の理由・因果関係を捏造し、それを信じ合う人々と生きていく方が楽だ。宗教も陰謀論も、そのニーズに答えている側面があるのではないか?

そういうことから、もう少しだけ逸れる道を選びたい。その一環としてまず、自分と人を不幸にしてまでは納得しようとしない。その納得の仕方には納得しない。

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