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必要なんですこういうことが。仕事を進めるために・・・

仕事が捗っており、徐々に機嫌が悪くなってきた。まず散歩によって身体をいなす。

さらに、頭の中を吐き出す。従来はTwitterのお世話になっていたが、これをもう少しボリュームのあるものにしていくことをためす。

個人語で書いてます注意

贈与に関する本を読んで、いろいろと実践していった中で分かったことがあるが、他人が言っていることは所詮他人の言葉であり、それが浸透するには翻訳が必要だ。あるいは、ストレートに選択的透過性を突破できる言葉が必要だ。

なので、日報その他全部に言えることだけど、自分の「個人語」として書く。人にわかってもらうように書くときは、公共語としての日本語を使う。

贈与ではなく便宜の話をしよう

さて、贈与と呼ばれているものにも2つあり、見返りや他者への影響を想定しているものについては「便宜」などと呼び変える必要がある。

見返りを求めない贈与は、もう制御不能なので、そういうものがあるよね、以上のことを論じることにあんまし意味を感じない。なので、ここでは前者の便宜について書き残しておきたい。

余り物は捧げてはじめて豊かさになる

見返りが「あってもいい」という便宜を図る。それを可能にするものはまず余剰・余裕。これは身も蓋も無い事実として、実感するところである。

そのための余剰をどう作るか?という問いは、すでに無限遡及性を帯びているので、起点はそこから少しズレていて「すでに余剰とみなせるものはなにか?」を問うことだと思う。

大抵はお金(小銭)・時間(ヒマ)・興味(執着)のカクテルで、バリエーションとして、地理的アドバンテージ、遊休資産、満たされない欲求なども挙げられる。

この時点で便宜を図ることを可能にする前提には再現性がない。個別の環境と機会がある以上「こうすれば勝てる」というものがない。

あるとしたら「これだけはやっちゃダメ」という種類のセオリーだけど、それが分からない人に、こういう話をしてもしょうがないというか、何かを獲得しようとする前にやることがあると思うし、そっちの話は誰にでも見えるところではしたくない。

忘れて忘れられる(ことが最も鮮明に刻まれる)

「因果関係を問わない」ということが、見返りを求めないことに近似する。どうでもいい。計算しない。求めることは便宜の実行と相手の承諾であり、取引関係と呼べるものがあるとしても、そこで完結する。

しかし、実際のところは厳密な因果関係はさらに拡張され、判明するものから判明しないものへ移行したに過ぎない。それでいて、射程が広くなればなるほど、その領域が包含する因果関係は複雑になる。その糸の一本ずつが関係性を司っているなら、手放したほうが、手放したことによってさらに強固に結びつくという事態を引き起こす。

そのことに自覚的である限りは、やはり贈与を実践しているとは言えないし、それでよい。便宜を図るのでよい。

自他境界と価値評価のハッキング

もう少し具体的な話も書いておこう。自分に都合が良くなるということは、自分をとりまく人的環境がまず良くなるということだと仮定して、その都度もっとも効果的な便宜を図る。

自分の余しものと、その人の求めるもの(渇きもの?)のマッチングデザインは楽しい。わたしたちの価値評価は固有かつ変動するものなので、「安く仕入れて高く売る」とは、つまり金銭・市場的な世界で、そのことをパロディしていることを指す…と思っている。

ここでは「自分」が「利益」を出すという仕組みを、「我々」が「シナジー」を出すという仕組みに再編成している。このことが外貨(我々の外からの価値流入)とも結びついているのであれば、これはいくつかの意味でのガバナンスであるとも言える。

<わたしたち>を形成するための、もう一つのもの

儀礼が「我々」を形成するということは、既に語られていたけれど、あくまで最大公約数的にであり、もう一つの、選択的透過性として機能するものについて、言うことができる言い方で言うなら「詩心」としか表現できない。

「暗号」でもいい。なぜ読めるかも、もはや内容も問題ではなくて、それが限られた人にしか伝わらないという構造がもたらすものがある。だから陰謀論には快楽があるし、このnoteは入れ子構造になってもいる。

お前は何を言っているんだ

詩心によって線引きされた我々の内側で、余剰と渇望のマッチングとして便宜を図りシナジーを発生させる。これを暫定解として展開していくし、しているということ。ヨシ!(なにが)




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