でち日報2024/04/04
7時前に起こされて、朝食から着替えまでやってゴミを出し、外を歩かせたものの、遊び足りなそうだったので近くの施設で歩かせまくったら帰ってすぐ寝た。
この流れが毎日固定できるなら、それでもいいな。という気がした。朝の読書も少しできた。
昨日の夜で、一気に1月の対談スペースの文字起こしを終わらせた。一部友達に手伝ってもらわなかったら、大げさでなく年内には終わらなかっただろう。一人で抱え込む状況を回避することに重要な意味がある。
読み返せば面白いことを言っているが、もはや、その面白さが、人に伝わる必要がない、という境地に至ってしまった。ロジックは行動をもって効果を出すための経路に過ぎず、そのソースコードまで見せびらかしてばかりでは、端ない。奇特な人がいればそれに応える程度がよろしい。
カフェインをバチクソに効かせないと、つらくて仕事が何もできない。逆に言えば、通院もせずに医薬部外品で事足りる程度の抑うつということだから、その程度でよかったと常々思う。
大腸検査の関係で1ヶ月以上デカフェもしてみたが、やはり業務に支障をきたす。もっと省力化が完成した後であれば、年に数回そうした時期があってもいいとは思うものの、季節の変わり目や単発の案件などの対応で、なかなかうまくはいかないものだと理解している。
ずっと何もしたくない割には、できている方なのではないか?薬理の力を使って社会生活を送ることを、何の恥とも思わない。ただ欲を言えば、反動でつらい時期だけ、もう少し軽症になってほしいところ。
諸々の3月分集計を今日終わらせて、夕方の会議に出席したら、もう来週の月曜まで何もしたくない。デイリーと連絡対応だけであとは寝るか子守りをしていたい。
働きに出ているお父さんと比べると、かなり我が子の成長を追うのに時間を割いているけど、それは子供を愛でている間だけは、自分が消えてしまいたいという衝動が和らぐというか、もはやその衝動が、部分的に満たされるまである、というのは大きい。
つまり俺は死にたいのではなく、「意識があることの苦痛」に苛まれているという表現が正確だと思う。対策は3つある。カフェインの興奮で塗り潰すか、寝て意識の一貫性を失うか、忘我のレベルまで意識を別の対象に注ぐかである。3つもあれば取り回しも効くのである。
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