でち日報2024/03/26

意味があるということに耐える力が衰えている。意味のトレーニング、意味トレをしなくてはならぬ。

無意味に思われることには、単に自分が把握できない因果が隠されている。そこに賭けることに慣れすぎた結果、意味がないことを毎日一定量やらないとつらい、よもすれば、意味がありすぎるとつらい、と感じるようになってしまった。アホすぎる。

とりわけ、主観的な意味は感情と結びついている。自分の至らなさを思い知らされる種類の仕事があると、そもそも始めにくい上に、カフェインでゴリ押しして進捗を出すと反動がすごい。

昨日も、もう飽きたゲームを5時間超やった、これが仕事や読書、映画に代替できないのはなぜか?やるべきこと、興味のあること、楽しめること、これらは「意味がありすぎる」のだ。

今日から自覚的に意味の負荷をかける訓練をする。5時間ってあんた、長めの映画を観てもお釣りがくるんだから。


それでも仕事のピークは過ぎており、今は先月の地獄を再現させないために一時的に必要な作業をしているにすぎない。省力化を実現させる直前が、最も手作業が増える。夜明け前が一番暗い。ここには希望がある一方で、希望とは意味である。意味はつらい。

なのでもういっそ、バカみたいにゲームで時間を無駄遣いしててもいいから、とにかく感情的にも消耗しながら進捗を出す。その後堂々とサボる。そういう作戦に出ている。本当にヤバい時は仕事→子守り→寝る→仕事しかできないからな

ただ「時間を無駄にする」ことに飽きた。そこに意味付けが生じてしまった。もちろん、新しいことを始めづらい程度には惰性が働いているのではあるが、制御できないほどではない。

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