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肉を覆うと殻になる(『ライティングの哲学』読書感想文)

人に勧められていた本をまとめて買った。

移動中に読める本として、最初に読み終わった。

自分は執筆を生業にしていないが、だからこそ、登壇者たちの苦しみに普遍性を感じる。

義務遂行を欲求する義務、その苦しみ

この4人の執筆に対する苦しみや遊離、快楽は、自分にとっては業務のそれと同種であると感じた。

しなければいけないことをするには、その「しなければならないこと」をしたいと欲望する必要がある。

きっかけは作業興奮でもいいけれど、行為中はその行為の肯定をくりかえし、行為状態の継続と展開もまた、何度も予測的に肯定する義務が生じる

ゲームの型は単一ではない

こうした欲望を制御する力は有限である。それで知り合いの多くが「業務性うつ」に罹患している。俺もです。

対策として、意志の力を使わないための「型」だけでなく、使っていない脳の箇所?を活かす「型」を呼び出すことが紹介されていた。

意志と義務、そして欲望は、「型」の数だけある!…とまでは言えないけれど、ある枠組みの中で有限な資源は、別の枠組みにおいては邪魔なくらい余っているということならば、これは大いにありえる。

社会化する・される・しない

方法に再現性があると「型」になる。しかし二度と再現できない方法や、自分以外の誰にも転用できない方法もある。

過去の自分と未来の自分と、そして今この自分だけで完結する「社会」があるとして、そこでも社会化されない方法はありえる。

この時、社会から乖離した自分、つまり社会性のない俺は堕落した小悪鬼として、ちっぽけな渾沌である。

執筆や業務とは、この悪鬼のお葬式である。そしてお葬式っていうのは死因そのものではない。

食事までが遠い

ものをまともに書けない友達が多い。人に伝えるための文章が書けない・言えない。そもそも構成・構造をとらえる術が身についていない。

だからいつも感情と連想と蛇足とが入り乱れた、毛と垢まみれの塊がぶっ飛んできて、とにかく読み解くコストが高い。

それでもいい、と思える相手しか残らない。場違いに荒々しい言葉の動物、食卓に跳び乗った泥だらけの動物を、まず去なすことからしか意思疎通が始まらない。

「しかも俺にこの生き物をシメるところまでやらすの?」みたいなことを毎回感じている。でもそうしないと、一緒の食事までたどり着けない。

一方で、絶えず暴れ続ける動物としての言葉には、標本にも食材にもない(そぐわない)力がある。その力を俺たちは「いただく」のではなかったか?

何の話だっけ?

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料理の例え話から離れて、タイトルに寄せる。

対話という社会化が起こる前に、まず言葉の指し示そうとする、ぶよぶよした肉の塊には、内側から支える骨がありえる。

それは規範であり限定されたゲームのルールであり、学習された類型と語彙、構造的理解に基づく読解力、そういうものであったりもする。

この硬質な機関がもたらす制限を有限性として活かすことができるか?できなさを肯定できるか?肯定できなさを肯定できなさを肯定(できないループを適当に切断できるか?)

例え話を厳密にしないでいられるか?準-意味の庭に坐し、所在なく、指向性のニューラルネットワークでいられるか?

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自分の業務に必要な能力は、いつでも勝手にやっていることの転用だ。

書くこと、調べること、伝えること、どれも最初はしなくてよいことだった。

しなくてよい、社会化されない、勝手な余計なことの転用は、この本にあるライティングの技法の一つであるようにも思われる。

必要や義務から逸れる、あるいはハナから無関係であるような、動物的な動きや弾みを経て、その肉を食材として転用する。骨の斧として転用する。

原稿にもまた途中と完成があるわけではなく、それぞれがそのようにあり、個別に参照と転用が繰り返されている。

社会化されることと、便宜上の規則に従うことはまた違う。ということを思い出すことができる何かがこの投稿にあるだけでもよい。

実家につれてきた息子の機嫌が限界となり、ここでこの記事をよりよくすることを簡単に諦める。


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