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読書会の効能

デリダを研究している院生の方の手引で「エクリチュールと差異」を読む読書会に参加している。難しすぎて楽しい。どんな話をしていたのかということを、ここにまとめる気にならない。そのように意味世界に包括せずにはいられない私たちの潔癖症についても触れているからだ(いやこれは言い訳です)

別の法律好きな会社員の方の手引で、江戸時代の法制度についての本「近世日本の訴訟と法」を読む読書会もある。これからインターネットはネオ中世に突入するので、さらに未来のネオ近世を見越して江戸時代に学ぶところは大きい、という話もしていた(ほんとか?)

他人の専門、他人の欲望に相乗りすることは楽しい。彼らの感覚を他人としてトレースするためには共通の言語が必要だ。イーロンマスクは君主論を読んでいるにちがいない。バタイユが様々なヘーゲルの姿を羅列するシーンは、さながらチェンソーマンが滅ぼした厄災を並べ立てるマキマさんだetc…

読書会は、どんなものであれ、複数人が一つの体験をともにする場である。そこにはテキストを媒介とする語りがあり、呼びかけへの応えがあり、当然に儀礼的な性質を帯びている。

毎週決まった時間を1〜2時間確保するのはなかなか大変だし、それまでに課題図書の指定範囲を読んでおくこともノルマになる。しかし、そうした負荷をかけてでも、特にコロナの時代において連帯と共振を育むものとして、世代や地位を横断するような読書会は、わたしたちに<わたしたち>をもたらす重要な機会であるように思われる。

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