崖のむこうの「やるをやる」 でち日報2023/08/26
何もする気にならない時は、日報をサボっている場合が多いので、まず日報をやる。
難民社長とえらいてんちょうのスペースで言ってたプロレタリア未満たちの生存戦略ということとも呼応する。少子化によって子供がいない社会の次は、誰も働いていない(働けない)社会がきて、AIが仕事を奪うどころか、AIに仕事をさせないと回らない状況になるのだろうか?
業務の異常な複雑化と高度化、そして一人当たりの負荷の暴騰によって、この「社会ゲーム」を真に受けることができないか、先に心身が破壊されるかして、労働力たりえない人たちが人口の大半を占めるようになるとしたら、それは都会から始まるとは思っていたが、もう割と現実が追いついてきているという
次は細切りにして、卵焼きとカニカマを足して冷やし中華の具にする
「頑張れない人を頑張って助けるといいことがあるよ」と言えるのかどうか、目の前の人はどちらに賭けているのか、という視点はある。
相当うまくいった。あまりにもクリティカルなので、今日あんまり仕事しなくても予定上問題ないくらいだ。
ただ、家族の外出が重なったことと、単純作業だったことが大きい。これくらいの進捗を、家族が家にいる状況で、かつ思考力を費やす種類の仕事でも出すためには、作業専用通話以外にどんなことを試したらいいだろう?
なんかtumblrでそういう記事があった気がするんだけど、出てこない。インターネット幻覚か?
これは別の機会に話したことだけど、救われた人間は、救われる前の状態を思い出すことができないような、完全な断絶を体験する。
だから、やることができる人間や、やれるようになった人間は「やることをやれ」としか言えない。それは彼らの傲慢だけではなく、構造的にやれない人間側に立つことができなくなるような、何らかの跳躍、喪失を体験しているからだ。
俺もそうだ。過去の日記を読むと、なにをこの人は思い詰めているんだという気持ちになる。躁鬱の激しい人なら、もっと短いタームで体験しているのかもしれない。
ともかく、やることをやれるようになるまでは、何か固有の方法を編み出すことが必要になる。これは「やることをやる」ことと相反しないが、このことを「やれ」という側は考慮することが難しい。
自分の場合は「2日空けてカフェインを摂る」が最も再現性の高い「やる」であるに過ぎない。それに当然ながら、あらゆる仕事が3日に1度のペースで間に合うわけではない。
なにかもっと多層的な「やる」を設計する必要を感じる。それは「何も考えずにとにかくやる」が苦手な(効果が薄い)人間だからでもある。
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