淀みをこそ

自分が破滅的に気力のない人間で、それはいくつかの時期において生存を強く優先せざるを得なかったためなのだけど

そこから個体の気力に頼らない生活設計を目指していくことはできた。つまり、ラクになるためなら頑張れた。

環境の良さや幸運が重なったので、再現性はない。でも「標準から逸れる」という戦略(時間の経過を伴う複数判断の傾向をあらかじめ策定するという意味での)が機能するのは、誰にとってもありえる状況だ。

育てるということが、自分のテーマとして大きい。それは人の親だということもあるのだけど、見込みのない人たちを、だからといって切り捨てない。ということも含める。

それは俺自身が救いようのないほど、見込みのない人間だったからで、それでいて今は、そのまま生きていけているからで、この授かりものを自分のところで終わらせたくないという感覚に由来する。

おもしろいだけではつまらない。大したことなくなきゃくだらない。そういう微かで鈍い光を、まるで無いもののように扱う人たちと関わる中で、

ああ、自分は別の役割を担うのだろうという予感はずっとあった。

それは制度的な福祉ではありえない。どこまでいっても個人的な在り方にとどまり続ける。面白くなくて、つまらなくてよろしい。そもそも喜びとは興奮のことだったか?



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