楽になるのはもっと後で構わない【おじさん小学生の譫言vol.46】
やりたいことができないのはなぜか?
この前、人に「やりたいことを、『やらなきゃ』と思ってやるのを、やめる練習をしましょう」と言ったばっかりだが、自分はその逆をやることにした。
やりたいことを、『やらなきゃ』と思ってやる。
欲望する責務がある
心身と群れと認知の健康が不足している人ならば悪手であるが、自分はその点は、まあまあクリアできている実感がある。
その結果として生じた余剰を、消費する先として、やりたいことをやることができればベストなのだが、どうしても、やりたいことは、やろうとしなければやれない。
もしかしてその対象が、やりたいことではないからか?と考えもした。しかし現状で、やろうともせずにやれることはもう既にやっている。それだけでは満たされなくなってはじめて、「やりたいのにできない」に着手できるのではないだろうか。
その時、わたしは「やりたいことを、やらなければいけない」という衝動を、自らの欲望に責務を、感じていることになる。
もっとだらしなく欲張ることによって
もちろん欲望する責務には苦痛が伴う。それを余剰で乗り越えることを目指す。
その「乗り越え」をこそ求めているのであれば、限りなく楽をしようとするだけの態度は、ここでいったん趣を変えなければいけない(と思うことを欲する)。
自ら苦痛の中に飛び込んで、さらなる余剰を得ることを欲する。それは自らへの厳しさや人生に対する誠実さなどでは決してなく、怠惰と強欲をさらに先鋭化させることの帰結として、実現するのでなくてはいけない。
もっと楽しみたい。もっと生きていても構わないと思い続けたい。ここから先は、より小さくにじり寄ることしかできない領域に突入する。
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