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3種類ある「文章」、それで何がどうなる【おじさん小学生の譫言vol.16】

この前ひとと話した内容を、備忘として残す。

「頭を使うのが得意でない人」の文章???

依頼を受けて他人を分析する人の、分析を受けた人から、その結果をシェアしてもらい、さすが的を得ているという感想を持った。

その中で、分析された人は「頭を使った作業が不得意である」とあり、いや、でもその人の文章は面白いんだよなと思った。ということは?

単純に導き出される推論は「その人は頭で文章を書いていない」ということである。そして、その文章の面白さは、頭で書いていないことに由来しているということでもある。

たまたま分析結果には、「身体性を活かした作業が向いている」とあり、では、その人の面白い文章は、頭ではなく、身体で書かれているのではないか?と仮定すると、なるほど腑に落ちるものがある。

あくまで比喩としての頭と身体

とはいえ、文章を考えるのはいつだって脳だし、その文章を打つなり書くなりするものは、常に身体としての指である。あくまで比喩として「頭(論理性・理屈)」「身体(リズム・反射)」があるという話ではあるし、そのどちらかしか無いということも(たぶん)無い。

だけど、そういう解釈で大いに納得できる部分が、自分の中にあった。また別のあの人は、ほとんど全ての文章を「身体」で書いているから、「頭」にすれば明らかにおかしい内容や表現にも気づけないし、そもそも気にならないのだ。と考えることにすると、自分が受け付けない文章に対しても、少なくとも腹が立つということがなくなる。

そういう話をしていて、じゃあこの人の文章は?この人は?と盛り上がっているうちに、どうやらそのどちらでもないもので文章を書いている人がいるようだということが分かってきた。

頭でも身体でもなく

それはおそらく「欲」である。思えば、文章を考える脳があり、文章を書く操作ができる身体があったとて、文章を書きたいという欲がなければ文章は成立しないというか、発生しない

論理的な展開を重んじているわけでもなければ、小気味良いリズムが重視されているわけでもない。ただ「書きたい」という欲だけによって、膨大な量の文章が発生するタイプがそれにあたる。

つまりどういうことだってばよ

したがってこの3つ、頭・身体・欲のバランスが、個人によって違うし、たとえば文筆を本業にしている人たちは、そのいずれの観点からも鋭く尖っていたり、磨かれていたりするのではないだろうか。

これは文章に限らず、アウトプット全般に言えることだろうか?本当にこの3つで色相のように網羅できるものか?3つあるからって、だからどうなんだ?

ということは、今は全然わからない。単なる備忘としてここに残しておく。



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