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聞き耳を立てる でち日報2023/08/21

月曜なので、色々と状況が動いていく。午前中は子守ということで仕事は午後からやる感じ。

俺自身が動けないもどかしさ。外注費は捻出できないという声も、時間労働なら割りが良くないとできない(他のことをしたほうがよい)という声も聞こえてくる。

こういう時に余剰原資があればいいのだが、それは投資として長期的には回収されなくては持続性がない。まあ「長期」のスパンを「無限」とみなして、放蕩で殴るという手もあるにはあるが、いまは現実的ではない。

こういうアプローチはすでに大手企業が実践・検討しているはずなので、自分にできる余地があるとすれば、いかに持続的に採算を度外視するかみたいな話になる。それは、自分にはわからない力学を、全くわからないまま取り扱うという態度であり、ひかえめに言って、自覚的に無謀な愚者をやろうとしていることでもある。

そんなことを考えて過ごしているので、昨日のえらいてんちょう&難民社長のスペースは、個人的に非常に実りのある内容だった。実践の士である難民社長が、自らを起点とする地域活動について、現段階で、理念を明文化するべきか?するとしたらそれはどのようなものか?を検討していた。

スペースに結論があったとしたら、それは「新たな階級を定義する」ということだろう。これからの社会でプロレタリア(労働者)は、求められる素質の高度化・専門化によって、ますます特権階級側になっていく。その逆に増加していく「労働者にもなれない人」たち。具体的には

・(障害者雇用、就労支援を含めた)就労・雇用に適応できない
・何がしかの作業に従事できるが月10万以上を稼ぐことが難しい
・しかし親元を離れたい、あるいは家庭をもち子供をもちたい

という層を、一つの階級として名づけることが必要になる。

これを名づけることができたなら、難民社長の活動は『彼ら』をエンパワーメントすることである。と言えるだろう。そんな話をしていた。

今回の内容を自分の活動、自分の業務、そして自分のやりたいことにどのように応用できるか?ということを考えると、やっぱちょっと…俺のは無理筋なんじゃないか?という気持ちになってくる。

まず「王」たる器なくして、何かの中心になることはできない。まあこれは、自分が中心になるのとは別の設計を組むのでいいとして、

次に、物理的接触・干渉なしに連携することの限界がある。地域社会に根付くような活動も、拠点に集まって仲間と同じ時間を過ごすような活動も、俺はできない。

地理的な問題というより、個人の特性として難しい。人間から放出される情報が粗くなるインターネットに安住の地を求めたものの、さらに何事かをしようとするならば、そこで完結させることは難しそうだ。

しかしながら、俺と同じタイプの『彼ら』がいるならばどうか?

物理的・地域的連携とは、絶望的に相性の悪い労働者未満の人間、いるはずだ。直接連携しようとする前に、まだ見ぬ『彼ら』に、それでもやりようがあるよ。というメッセージを示すことは、できるかもしれない。その種類のコミュニティを形成する件については、いったんそうした段階で保留にしておこう。

自分のことをやらないといかんのよな!この忙殺そのものが問題として取り上げられるべきでもある。つまり自分が子育てと仕事によって、他のことができないという状況を、受け入れつつ、受け入れ切らないこと。同じ苦境を、他の人たちに押し付けないように、具体的にどのようなことが(忙殺されながら)可能なのか?ということ。




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