見出し画像

わたしが「運気」と呼んでいるものについて

不躾なFF外から「運気ってなに?統◯◯会?」と引用RTがきたので、即ブロックしつつ、この表現については、改めて説明したほうがいいかもと思った。

よくわからないままやる

自分が運気という表現を使う時は、それは「人間には把握しきれない複雑な因果関係」のことを指す。仏教用語の縁起を、もうすこし俗っぽくしたもののイメージだ。

まず前提として「こうすればこうなる」ということが予測できること、さらにその内の自分が実現できること、というのは非常に限られており、

そうした領域の外側には、無限の「なんかよくわからないこと」が広がりつつ、不可視のまま密に連携し合っている。という世界観がある。

その把握不可能な外側に対して、把握不可能なまま作用する余地がある。よくわからないものを、よくわからないまま、しかし自分にとって都合の良い状態に持っていく技術があるとしたら、それを「運気」の操作と見なす。

謎の不文律を想定すること

わざわざ世界を相手取らなくても、目の前の他人はおろか、自分自身のことも理解できない私たちは、しかしそこに純粋な混沌があるとは思っていない。

いつでも何かには、何らかの理解不能なルールがあり、主体はそこに働きかけることはできる。ガチャほど平等な確率論でもなければ、コーディングほど再現性のある理路ももたない、曖昧模糊とした構造と決まりごとに対して、いずれかのボタンを押してみることができる。

どのボタンを押すかという判断そのものは適当でもいいから、まず「そこに何らかのルールがあり、それは決して把握しきれない」という認識を抱いているかどうかによって、どういうわけかほんの少しずつ「よりよい判断」が積み重なる。これを「運気の操作」の自覚と見なす。

運気に関わっている(と思われる)ものと不理解

この「よりよい判断」をもたらす「運気の操作の自覚」そのものを「よりよい」ものにすること、同時にここで言う「よりよさ」とは何か?ということについては、どうやら哲学と宗教、そして芸術が関わっているように思われる。

これらはいずれも、自分の認識世界の外側について(あるいはどこまでが厳密に内側であるかということについて)考える契機である。

そして、そのような契機を活かす行動、つまりボタンを押すこと抜きには何も得られないとも言える。自分で行為しなければ身につかないものがあるということは、これは人に伝えることがどうしても難しい部分を含んでいることでもある。

それゆえ「運気」という呼び方は、すでに不理解への諦念を含んでいる。そのうえで、語れる部分があるとしたら、このような文章になる。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?