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でち日報2023/07/27

昨日はデカフェ明けで、家族も出かけたので、よーし進捗出しちゃうぞ〜!と意気込んでいたはずが「客観性の落とし穴」読了。なにしてんだ

いや違うんですよ、一番差し迫った業務は、朝のうちにできるとこまでやったから、あとは待ちの状態で、そしたらこの小さな「凪」のうちに感情のケアをですね…はい…ほんとすみません…今日帳尻合わせます…

そんな調子で夜は企画業務の下処理(8月から孫請けに出す)をやっていて、あとは若い人の相談コーナーをぼんやり聞いていた。今日の午前中には俺が担当する番なので、予習のつもりであれこれ考えながら寝る。

思うことは、やはりスラムでべんけーさんとやった「限定経済から一般経済へ」の読書会で得たエッセンス、特に「閉鎖的全体的体系をその中から含み嗤う」という感覚が、本当に応用が効くというか

それを知っているだけで「こんなに『正しい』のになぜ機能しないのか?」という類いの問いを一撃で倒せるようになってしまったのは、すごいということだということだった。

この前モニターした某店長の新規事業に、べんけーさんも参加するのであれば、今度はちゃんとサービスとしてデリダの講義を受けたい。不安なのは、この事業自体がニッチすぎて成立するのか?というところだけど、いざとなれば個人to個人で声を掛ける手がある。

そのためのお金と時間を捻出するためにも、やはりこの…目の前の仕事群を退治することを、それ自体を喜びとすることを、はよ実現せねばという話なんだよな。

話題はちょっと戻って、冒頭で読了した「客観性の落とし穴」という新書、論の立て方が粗かったり、それはさすがにちがうだろ〜!という部分もあったりしつつ、結局は、自分の今の興味に引き寄せて読み切る形となった。

数値やエビデンスによる客観性では拾うことのできない、その人だけの語りのリズム(多分「グルーブ(うねり)」のことを言ってる)、それを実現させる非セラピー的な「場」、実践としての草の根コミュニティ

コミュニティおよび、コミュニティ内の派閥は、他なるコミュニティ・派閥との連携を前提として機能する。価値観と表現の多様性は、その人が無目的的に居ることを可能にする場との遭遇と選別を可能にする。

「ともだち」論もそうだけど、一度形成された関係性や距離感が、どうして不変のものとして固定されようか。絶えず変容する関係性を大きく括りつつ、自在に移動・越境できるのでなくては、場は硬直して澱むばかりである。

だから聖人君主でもなければエコーチェンバーでもない、中間か、あさっての方向としての「奇妙な開かれ」を選ぶのが、個人的には関の山かな〜みたいなことをイメージする。あるにはある。ないわけではないが、だれにでも見えるものではない。あるいは、だれにでも「そのように」みえるのではない。

何でもそういうもんじゃない?とは思いつつ、それは「実際のところ」の話ではなくて、建て付けとして、まずそのようであること。既にそういう個人ではある気がするので、それを「場」に拡張すること

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