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ゲームと生活の差異は前提の硬度かも

いい歳してビデオゲームをめっちゃやってしまう。7時間ぶっ通しで遊んでいると、明け方には心臓が痛くなっており、命を削って生きている実感がある(アホ)

かといって他人と対戦したり、RTAのように世界一を目指すようなものはできない。多少頭を使って、反射神経を伴わないならなお良し。ということで、自分がゲームにもとめているものは「脳死プレイ」である。

何が脳の負担になるのか

駆け引きや簡単な四則計算は、いくらでもあってよい。ゲームが現実と違うのは「前提が不動」という点だ。

トランプでもスポーツでもいいかもしれない。そこには明確に共有されたルールがあって、それ以上のことは起きないことになっている。

すると頭の使い方が限定的になる。ある領域から先は「考えなくていい」ということになる。

これがどうやら自分には、漠然と何事も「考えなくていい」よりも、安らげる状況らしい。実家の父も無限にWindowsのソリティアをやっていたし、そういう性分なのかもしれない。

生活世界をプレイすることのむずかしさ

しかし現実はそうはいかない。「限定された前提」は弱々しくてすぐに破れるか、無限に広がった地平である。何層もあり無数に枝分かれしていて、なんなら隠されていることも多く、タチが悪い。

現実は人間が人間のために作ったものだけで構成されていないので当然であるし、だから生きていくことができるのでもある。

すると現実をゲームのようにプレイしようすると態度(のみならずそうした言葉遣い)は、生活することに求められる強度を満たしていないことになる。端的に言ってナメている。

でもそれ(「舐めプ」と呼びますねそういえば)は、衰弱のバリエーションのひとつでもある。複雑で恐ろしいものに対峙し続けることができる強さを、特に俺は維持しつづけられません!すぐバテて、「限定された前提」の世界に逃げ込んでしまいます。

ということは…ビデオゲームは、俺にとっての飲酒なのかもしれない。そう考えると、まあ比較的、身体への悪影響の少ない、よい逃避行為なのかもしれず…

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