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でち日報2023/10/31

昨日の日報が夜だったので今度はNotionの整理が中心

Scrapboxで考えている内容を、さらに圧縮したものを提示すると読んでもらえそう

あと、「同じことを別の言葉で何度も考える」という仕草を、どの階層でやっていったらいいだろうというのはある

ノーコード、ローコードも使えるようになりたいというか、俺が生業にしている領域「本業エンジニアがやるにはレベル低い部分で効率化」ってまんまローコードの理念なのではという気がしています

こう何でもできるとなると、今度は「Notionのページは、アカウントがない人が気軽に見れない」が問題になってくるほどだ

Notionより

余剰の胆力払い、利子は感情か

使い道のないリソースは当然余っていても、それを加工するコストは余剰になりえない。どうしても「力み」を伴ってレバレッジをかける必要がある

その運用の中で、本当に余剰を使って回していくことができる。理想的なサイクルを起動する時の「火入れ」は、一時的な高揚感でも若気の至りでもなんでもいいので、とにかく無いものを絞り出す

「フィジカルはスタミナの積分」という表現が俺の中で話題だけど、これをもっと一般化すると、資源の初期値に個体差があっても、最終的な(持続的な)出力は運用によって決まるということを、まずは信じることに通じている

運用したものが資産でありリソースである。結果だけ見れば、それは最初から恵まれていたのか、「恵み」を生成したのか、判断しづらい

魂が、ある複雑さのことを指すとしたら、それが蓄えられるのは、この世とは別の世界においてではなくて、関わりのあった他人、所持品、部屋、建物、土地、空間、空気、光、いずれもこの世を構成するものにおいてでなければならない、とまで言えるか?「この世の遠い場所」に転写されてはいないか?

なんかライプニッツが、この手のことを言っているらしいんだよな

意識や霊魂、形而上学的なもの、イデア的なものについてぼんやり考えていると、結局「あの世」なるものも、通俗的な現世世界に書き込まれているのではないか?という気がする。質量マイナスの物質は、逆行した時間にある。というファインマンの説も気になる

有限なリソース(思いやり)を奪い合いつつ、他人に対しては「奪うな(迷惑をかけるな)」と言っている

それは「リソースがあること・差し向けられることへの、謙虚な有り難さを感じてばかりだと一方的に奪われる」という不安からきている 

新たに村を作って線引をすることで、リソース分配を局地的に最適化する試みはあるが、市場価値は出にくい

「有限のリソース」として評価し分配しやすいものとして、奪い合うものが「お金」一辺倒になっていれば、そりゃどんなに豊かでもショートしてしまう原理的な無理がある

これはある時代のある国が、「俺たちがこんなにひもじいのは、【あいつら】が必要以上に奪っているからだ」と叫び出したことの背景かもしれず
評価しづらくて、保存できず、再現性のない「こまったリソース」はむしろはちゃめちゃに余っている

どうしようもないものを価値あるものに変換できるような夢の錬金術を見つけようor試そうとするのとは別の方法があるが、それもまた「困ったやり方」「迷惑なやり方」にほかならないだろう

これは動画を観た感想をスラムに書いたやつだな

だから精一杯余剰を生み出して、それを他人に与えて制限を解除する

制限を解除されることで市場価値を発揮する人もいる
市場価値が発揮されない人は、市場ではない価値に接続する

全体を「異常な(経済的)余剰」が担保するしかない。これでは持続性がないし、それはその手前にあるものが、たまたまある一点に集中したということでしかないような気もする

その一方で異常な経済的余剰点のハッキングは、実は地味に時間をかければ、能力に依拠しない。これを信じる

「異常な経済的余剰点」は、通貨とは違う形でならば実現可能だし、通貨でも余剰は作れる

それを今以上に増殖させるために必要なことを、可能にするために必要なことは何か?

「異常な経済的余剰点」(=特異点)の発生は、そこに至るまでに不可視の蕩尽(地味に時間をかける)が発生しているはずで、それを含めると利鞘は相対的な関係の間に「みなし」としてしか発生しえないのではないか?

乏しい資源の奪い合いは、精錬の難しい資源への投資サイクルが止まったことによって生じる再び投資サイクルを回すには、見込みがなく周りに迷惑な、蕩尽による着火が必要である比較的余剰がまだある人間(有徳人)が蕩尽=供犠によって、モノに貶められたリソースに、ロゴス外のエネルギーを再充填する

そこまではわかるというか、別に改めて文字に起こすまでもない

問題は、それをどうやって具体的に持続可能にしていけるのか?ということでありまして
俺の頭で何かを考えることは、そこで完結しない(そこだけで行動・判断しない)まま、開かれてあることに適している。閉じる・収束させるだけの知性がないことを認める勝っても負けても、プレイしているということに価値は宿る(当然ゲームの範囲内だが、そこで生まれる価値の源泉として)

だからものを考えているように見えて、庭先でぼーっとしているのと大差ない

人間自体が「庭」である説もある

これに対する一つの解答が、ドキュメンテーションになりえるのかもしれない。初期能力値に依拠しない「運用」は、リソース運用サイクルの着火に先立つ。原始地球におけるスープの海からタンパク質のバリエーションを作る


なんか小難しくなってきたぞ。今日はここでおわり!


どうしても似た感じの画像ばかりになってしまうな

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