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目標:3年後すごいなんか…なんだかすごくなる

「3年後に目標を立てるとしたら?」という話をした。大金持ちにせよ、有名になるにせよ、それは何らかの「結果」でしかなく、それらをもたらすものを目標としなければいけない。というところまでは分かる。

目標設定という低コストの認知によって、今この瞬間の過ごし方が変わり、望ましい振る舞いを維持できるならそれに越したことはない。問題は、どのように「望ましい強制力」を維持するかである。

目標を人に言うことは拘束のように見えて、信用を支払うことによっていくらでも破棄できてしまう。そして信用とは、いま最も支払いたくない種類の資産でもある。

3年後には40歳、不惑の歳であるが、もうどうせ精神的にはあんまり今と変わっていないか、ちょっと衰えている程度だろう。

では社会的な地位を目指す?それも結果に過ぎないし、かといって有名にも高名にもなりたくない。現代では大いに割りに合わない。

3年で、望ましいものを(副産物として)獲得しまくっている状態を実現する、ある種の型を確立させる、というのがギリギリ設定できる目標である。

2025年の9月5日には、あらゆる学習と訓練を望ましく蓄積できており、それ自体が目標ではなく、目標達成の評価基準にすぎない。これなら目標たりえる。

ではその目標から逆算して、ただちに今日の過ごし方をチューニングできるか?「事実間違いなく、できることは全てやったし、感情的にも決着がついている」と、思わない日を異常とみなす生活を開始し、途絶えさせない事ができるか?

そのために優先順位はどのように書き換わる?こんな文書を書いている場合か?当面の生活には不必要な焦燥感と負荷を、楽しめるようになるまで何日かかる?

「3年後までに望ましい状況を生み出す何かを獲得し、それを結果によって証明する」というのは、目標としてはいささか遠回しな表現で、力強さや情熱を感じさせない。

おそらく社会では「それを証明するに足る結果」自体を目標と呼ぶのだろう。それに従うなら「なんか士業になる」「なにかが10億円になる」とでも仮置きしておけばよい。

あるいは、目標には「それ以外を犠牲にする」という側面もある。だから目標設定は何を捨てるかとセットでなくては実現性に欠ける。人間が有限な存在である以上、目標達成はリソース管理ゲーである。

何ひとつ捨てないでいようとするとどうなるか?こんな半端中年になるぞ!

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