でち日報2024/03/29

かなりカフェインを摂ったにも関わらず頭痛がしていたが、朝になって大雨で、そういうことかと納得する。

無理して映画を観た分、昨日の体調は思わしくなく、それでもいいから週1回は映画を観たい。と思いながら、どうせいつも忙しさにかまけて観なくなってしまうのだろう。

昨日の夜は映画の代わりに、作業通話をしながら昼の進捗の帳尻を合わせていた。ひさびさに絵も描き進めることができたのでよかった。

が、今日が3月最後の平日ということで、色々な締切が迫っている。天気が悪く元気もないが、またコーヒーを飲んでやっていく


これからの時代は、いかに直接人に会えるかだ。という話題が仲間内であって、それに対して、そもそも生身の他人が苦手な自分は外れ値だなと思ってしまった。

今はまだ困りごとがないけれど、これから先…イメージとして2、3年先くらい?になると、人と直接会ってこなかったツケが回ってくるのだとしたら、どういう対策をしたらいいだろう?

前提として、なぜ直接人と会うことがそこまで必要なのかというと、文字や通話のコミュニケーションでは伝わらない、あるところから先の情報交換が人間関係には欠かせないからだ。ということなんだけど

それは、お言葉ですが、直接会うことに頼らなければいけないくらい、皆さんのコミュニケーションに対する感覚が粗いからではないですか?と思ってしまう。

いや、実際はそのくらい粗い方が正しい。というのも、自分が生身の人間が苦手な理由もまさにそこで、人間に直接会うと「情報がリッチすぎる」からだ。

人の身体が発する情報は濃すぎて酔う。たとえばスーパーで見知らぬ人とすれ違うとか、スコーン屋さんの店先で順番を待つとか、そういうことはなんら苦ではない。

情報がこちらに向かってないし、こちらも情報の経路を開通していないからだ。それでもウッとなることはあるけれど、すぐに止む。

問題は目の前に肉体をもって存在する相手と、内容のある会話をする時である。過去の経験では、同じ空間で仕事をするというのもじわじわ苦痛だったので、たとえ無言でも、そこには広義のコミュニケーションが発生していたのだと思う。

加えて、リッチな情報を発しているのは相手だけではない、自分からも、かなり望ましくない、誰にも伝わってほしくない情報が絶えず立ち昇っているのがわかる。むしろこちらの方が深刻かもしれない。生身の自分が人の前にいる事実こそが耐え難い。

そういうわけで、自分にとっては、文字や音声という形で濾過されたコミュニケーションがちょうどよい。ここ5年くらいは、それだけで友達を作り、仕事を得て、なんとか生活できてきた。もちろん一度も会ったことない相手や取引先がほとんどである。

それに、文字や音声で数年やり取りしてきた相手なら、もはや直接会うことも苦ではないこともわかった。必要な情報の型が飽和していれば、こちら側で生身から文字レベルの情報まで難なくトリムすることができる(それでまあ毎回、本人を前にしてほとんど目を合わせられない挙動不審なおじさんになっているのではある) 

で、これからの時代それだけではやっていけない。という話だったので、それは…まあ、そうですよね!という気持ちになる。

たまたまやっていけた人が、時代の移り変わりによって、やっていけなくなる。極めて自然なことである。

しかし生活していくには、この自然に逆らわなくてはいけない。ありがたいことに今は、そこまで目の前のことに、いっぱいいっぱいではないので、未来に向かって手を打っておく余地もある。

…余地あるか?まあ仕事しよう

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