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しなくていい勉強ならできる

仕事の努力目標として、専門的な知識を学習することになった。

しかし座学が非常〜に苦手である。

若い頃、通信教材に大枚はたいたり、宅建に3回も落ちたりしていて、特に試験勉強には自信がない。

一方で「学習」自体をまったくしないまま生きてきたはずがないので、できる学習と、できない学習の違いとは?ということを考える

寝ちゃう

小学生の頃から授業で寝てしまうことが多く、気がついたらひとりだけ毛布がかけられていて、他の全員が体育の授業に移動していた回もあった(今思うとずいぶん親切だな)

このクセが大学生になっても抜けず、講義で起きていることに困難があり、そのまま就職した先の会議でも毎回白目をむいていた(すごい怒られた)

どうやら講義や会議のように、自分を含む不特定多数へ発信されるタイプのものは「私が起きている必要なし」と判断する傾向があるらしい。

これはリモートでも同様で、今でも複数参加のビデオ会議が開催されるたび、何かに向かって静かに祈りをささげてしまう

主体性が大事だが

これが受け身ではなくて、自分から率先して行う学習であれば、当然眠くなるということがない。

ただし、自分から率先して行う学習とはつまり往々にして、しなくてもいい無駄なものを指す。

この「しなくていい」という点もまた主体性に関わってくる。しなくていいことでなければ、やらされていることになる。やらされることには主体性が発揮されない。主体性がないと眠い。しなくていい学習じゃなければ寝ちゃう。詰んだ…

伏線回収型オンリー

裏を返せば、自分の生活を助けてくれた学習というのは、総じて「しなくていい」学習ばかりだったと言えるかもしれない。

そんなことをしなくていいのに、なんかやってしまうことが、数年後に我が身を助けてくれるパターンが多い。語学にせよ、コードにせよ、楽器にせよ、その時は別にしなくてもいいというか、他にもっとやることがあるものばかりだった。

そういう仕組みに味をしめている節もあるかもしれない。今も、しなければいけない勉強というものがまともにできないまま、なんやかや生き延びている。

勉強しないわけではなく

いっそのこと、もう無駄で無意味な勉強しかやらねえぞ!!!と腹をくくったほうがいいような気もしてきた。

それはそれで間抜けな態度ではあるけれど、そもそも勉強というものは、そういった側面を持ち合わせてはいなかっただろうか?

何のあてもないのに、無駄に万葉集鑑賞事典読んだり、フルート練習したりしている時こそが、一番能動的でいられる瞬間なのではないか?

付け焼き刃が使えないなら、遠い未来ワンチャン役に立つこともあろうという気持ちで取り組むくらいが、自分にとってはちょうどいいのかもしれない。


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