結果を求めて行動するための自信のはなし
やりたいことをやる
「やりたいことをやる」には2つあって、ひとつは「その行為自体を求めてやる」これは放っておいてもやれる。
もうひとつは「望ましい結果のために行為する」で、こっちが難しい。英語が読めるようになるために勉強する。楽器がうまくなるために練習する。
そのためには、いつも欲求を理性で抑えねばならず、つらい。
いっそのこと、個人の理性を超えた力を使うほうが楽になることがある。意思よりも大きな枠組みで自分を律しようとするものを、ここでは「強制力」と呼んでみる。
アクロバットな逃避
行為を望ましいものに限定するために、場所を変えたり、人の協力を得たり、ときに金銭などのリソースを消費して、強制力を作り出す。
これはなかなか効果があるものの、欲求側もずる賢くて、そうなってくると「強制力を作り出す」こと自体を回避しようとする。
その頭脳を作業自体に回せばいいのに、やらない理由を必死で探してしまう。そこまでは全力を出していた知能が、かろうじて絞り出した理由の正当性を評価する段階になった瞬間、急にアホになる。
ここまで曲芸じみた心の働きは何故起こるのだろうか?
自分が信用できない
そこにはたとえば、自らの意思決定に対する疑わしさが関わっているのではないか?
意志の力を最優先すると死ぬ。眠らず休まず結果を求めると死ぬ。どこかで強制ブレーキをかけねばならず、そのブレーキが強いのは、かつて強くブレーキをかけないといけない事態があったからではないか?
つまり自分の意思に対して「こいつは信用ならん」という判断が、裏で働いているのではないか?これは自分を信じていないという意味で、自信の無さにも似ている気がする。
逸れていくことに味をしめている
そこから派生したものに、「想定外に対して開かれておいた方がおトク」というものがありそうだ。
何事かを成し遂げようとするよりも、その過程で得たものによって生かされてきた人間にとっては、脱線や脱落、放棄や頓挫こそが豊かさをもたらしてきたという、なんか変な学習がある。
それは惨めさの正当化でもあるのだが、生かされていることも事実であり、身体や欲求はその「生かされている事実」を優先してしまう。
信用を取り戻す
だから、強制力を正しく機能させるために必要なものは、より強固な構造ではなく、ましてや強い意思でもなく、自分の生存が脅かされていないこと、信用ならない自分の意思に従っても、安全であることなのかもしれない。
無理をしない。負荷をかけない。その上でできることは必ずやる。そうして自分に対する信用を取り戻すことが、かえって自分を制御することへの近道にはなるまいか?
長期的には、あんまり魔術的な解決法は無さそうだ。当たり前のことを、ただし喜んで自らすすんでやるということ。そのための文脈を何度も呼び出すこと。
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