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おじさん小学生の読書メモ30回目

読書の習慣が継続できてて嬉しい

「武器としての資本論」を読み進めている。

商品取引が関係性に死をもたららすということは、それ以前のムラ的社会には関係性の死がすなわち生物的な死への経路になっていたということかもしれない。

関係を断つということが、集団から孤立するというだけでなく、決闘・戦争に直結していたという話は「贈与論」にもあった。

そして「商品」を成立させるには、異なる共同体同士の関係性が前提となっているということは、その交流の場所が交易路・市場になるためには、前提としてそれぞれの共同体(「おらが村」)が明確に存在する必要があるのだろうか?

個人間の取引において、他者でさえあれば、必ずしも集団同士である必要は無い気もしつつ。

というか、交易路を設計する過程で「特産品」を想定するということは、暗黙のうちに商品と周縁(他者との関係性を生きたまま殺すことのできる浸透膜)の存在を必要としているような気がする。

となると、帰属意識は交易路に対してではなく、それぞれのコミュニティに生じるべきで、すると優遇されるべきは、交易路への参加期間が短い「新人」だけではなくて

どのコミュニティにも属することができないまま、交易路をさまよい続ける「デラシネ」なのではないか?みたいなことを考えている。

ということで、NHKオンデマンドのシルクロードの幻の民みたいなのを今日の夜に観るつもりでいる(論理の飛躍がすごい)

キャッシュレス決済や仮想通貨が、元々資本主義が人々にもたらしていた「匿名性」において逆行しているという指摘は面白かった。

以前、知り合いが「贈与とは、つまり記録されない取引ではないか?」という問いを立てていたことを思い出す。それは決済記録の外側で、交換価値ではなく経験価値として発生した取引(と言っていいのかしら)のことだったのかもしれない。

裏を返せば、たとえば個人的な経験として、商品を購入してもらったことから関係性が生まれて、個人間の交流が始まる時、そこには決済記録に残らないなんらかの贈与ないし交換が行われているということになるのではないだろうか?

シラスの動画で東浩紀が「贈与は交換の失敗としてしか成立しない」みたいなことを言っていた記憶がある。そういうことに関わっている話題なんだろうな。

あと、交易路とコミュニティの設計において講じられるべきは、ソーシャルディスタンス(近づくということありきの反対)ではなくて「無関係・無関心」の許容であると表現したほうが効果的なのかもしれないと思った。

「川野里子歌集 歓待」に目を通す。肉親の老いと死について、自らの老いと重ねて語られる表現は仮にありきたりでも、そこに研ぎ澄まされた言葉の迫力があればこれだけ心が洗われるものかと思う。

他者のわざとらしさや、作為というものが生活の中に現れる時、つい反射的に嫌悪感を覚えるが、それが「成功している」とみなせる場合においては、負の感情を呼び起こすものではない。ということ自体が不可解だなと思う。

同時に、あらゆる作為の失敗が不快であるわけでもない。扁桃体あたりで事前に下した判断によって、人間関係を省エネしている生物的な機構の存在を感じる。

誰かが他人に悪態をついた後に、わたしに向かってもそのように感じ、しかしわたしへの好意から秘密裏にキャンセルしている感情の動きを感じることは、恐縮しつつ気に食わない。嫌われたいわけではなく、そのような操作を生じさせる状況をまず、作りたくない。

つまりそこには作為の失敗があるし、成功した作為は観測可能ではない場合が多いのだろう。わたしが気づかないうちにわたしへの不快感を噛み殺している周りの人たちの気高さを想像する。


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