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でち日報2023/02/11

毎日書けねえ〜

どうもnoteを書くということに対して抵抗があり、毎日日報が書けない!困ったものだ。

一日の終わりに書くというのが良くないのかもしれない。そこまで厳密に何をやったのかを記録するというのではなく、とにかく毎日気が向いた時間に(あるいは他のことが手につかなくなった時に)なにかしら書いて投稿することにした。これでどうなるか

アウトプットの回路を舗装する

というのも、今やっていること全体に、最終的な成果物の提出という工程が抜けており、これを強化するために、まずはどんな内容でもいいから記事を投稿する習慣をつける必要を感じているからだ。

せっかくの読書や読書会、個人的な体験や発見、日頃から思うところなどなどがあったとしても、それらを記事にするハードルが高ければ、日の目を見ること無く消えてしまうものがある。

通奏低音

また漠然としたつらさがずっとあり、それから気をそらすために色んなことに手を出している。「何をやってもダメ」という自己認知が強いが、その中には「何をやってもこのつらさが消えない」というものが含まれている可能性に今日気がついた。

半年くらい仕事らしい仕事をしていない時期もあったが、それでもこのしんどさは消えなかった。ということは必要なものは休息ではない。人間関係も、生計も(なんとか)大丈夫な状態を維持できてなお、ある一定の苦しさが通奏低音のように鳴り止まない。

つらさの有効活用

このつらさを、いかに利用するかということを考える。このつらさがなければ、何もしないまま時間だけが過ぎていったわけで、苦しみから逃れようとする目的がまずあって、その副産物として学びやつながりが得られるという場面は大いにある。

そうして色々と手を付けたが、ほとんどが継続できなかった。継続はまあしょうがないので、その時の興味とやる気のピーク時に、何かを書き残しておくことができれば、それはフローをストックにするというか、一度かけた手間がずっと活きるような状況を作れる。

無意味も意味不明も、意味の領域にある

何事かを書き連ねることにいきなり意味や、ましてや価値を期待してもしょうがない。が、同時にそれが意味を帯びたり、価値を生み出したりしても構わない。

一切の意味を拒絶するような態度ではなく、どのような意味にも開けておくことは、意味世界の範疇である。つまり、大したことではない。

苦しくなったら書き、つらくなったら書き、他のことが手につかなければ書く。元々はそれをTwitterでやっていたものを、もう少し大きな塊にする訓練としてのnoteを書く。





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