でち日報2024/03/28

秋になったらじゃがいもをみんなに贈るんだ!とお小遣いを溜めていたが、春は春でアスパラの地方発送(通常本体よりも高い送料がこちら無料!)が開催されていることに気づき、早々に溜めてた分を開放した。

春はアスパラ、秋はじゃがいも、冬は長いも、となると、夏は何になるのだろうか。奥さんは「また始まった」という感じで呆れている。

こうした活動は何か狙いがあるとかではなくて、単に衝動が抑えられないだけである。あらかじめ「贈与の系譜学」で折紙(「折り紙付き」の由来)を使った贈与為替制度と、いわば徳政令によるその終焉を学んでいるので、毎年必ず贈るということはしない。贈り物ではアトランダムさを維持していたい。何を言っているのか自分でもよくわからん。

知り合いが推しに貢ぎまくってて、その勢いにやや引くこともあるのだが、何のことはない、個々のポリシーが違うだけで、おかしな発散・蕩尽をしているのは自分も同じなのだった。


20時以降の時間を有効に使いたい、俺は意味のある時間の使い方に耐えられるようになるぞ、ということで、無理やり何でもいいから映画を観ることにした。「コンスタンティン」を視聴。

頭を使わなくていい娯楽作品ということで、内容はともかく「映画を観る」ということ自体の喜びというか、脳のモードを呼び覚ますことができた。もしかしたら、一般的な基準でいくと俺は映画を観るのが好きな方なのかもしれない。

観終わった後、ガブリエル役のティルダ・スウィントンについて調べていたところ、どうやらその後のMCU作品でホワイトウォッシュ問題の槍玉にあげられていたらしい。

いい役者さんなのに不憫だと思いつつ、確かに役者業においても、人種間の機会格差は無い方がいいよなと思いつつ、でもそれで作品の表現したいものが捻じ曲げられたら嫌だなと思いつつ、しかしそのような問題を無視してまで作品づくりをしたり、そのような配慮で揺らぐような作品性だとしたらそれもどうなのと思いつつ…

そんなことを考えながら寝て起きたら、「コンスタンティン」を「キリスト教白人男性の主観」の物語と解釈することができそうだな。と思った。

(この話題、「でち映画」でタグをつけて投稿したりすると、いたずらに人を傷つけることにもなりそうなので、ひっそりと日報で書くにとどめる)

もちろん2005年の映画なので、そういった問題意識が設定されているはずがないし、もしそうなら、もっと…こう…あるだろ!というシーンがいくつもあるので、勝手な妄想として一笑に付してもらいたい。

ただ、自他ともに世界の中心にいるという自覚があること。そのうえガブリエルや、クライマックスの重要人物も言っていたように、望む望まないを問わず、身に余るほどの寵愛を何かから受けているということは、常に辻褄合わせの板挟みにさらされ続けている、ということでもあるのかもと感じた。これはあまり意識したことのない観点だった。

既得権益にあずかり、特権的に振る舞う人がいたとして、しかし主観的には、やり場のない怒りや苦しみにまみれているのだとしたら、仮に誰かの切実な願いや公正さへの祈りがその人の元に届くことがあっても、周縁の有象無象が騒ぎ立てているに過ぎないと、切り捨てられることがあるのかもしれない。あるいはそうした認知の膜を強引に貫通する者を、ヒロインと呼ぶのかもしれず。

勝手なことを言ったついでに、もう1点気になったところを挙げると、「宗教と精神異常の関係」だ。今回この映画は、そういったものは人智の及ばざる世界の影響であると解釈する娯楽である。一方で、そのように語ること自体が…招く…なんか良くないものも、あるんだろうな…という感じがする。


というわけで、「頭を使わなくていい娯楽作品」を享受できること自体が、どのようなジャンルであれ特権的である(空爆に怯えながらアニメを楽しもうとすることは決して本来ではない)という現状を、こんな島国の端っこのアジア系中年男性までが意識せずにはいられない時代の、豊かさと邪悪を感じながら、自分も人間界をごまかしごまかし生きるのであった。



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