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儀礼の諸条件を満たして「ひとり沸騰」を、爆炎から篝火に変える

(このnoteは「プロ奢儀礼研レポート」として提出されました。サロン参加者以外の方には説明不足な部分があるかと思いますが、ご了承ください)

ひとりで沸騰しがち

 儀礼研究所のzoom勉強会で儀礼を学んだ私は、そのせいもあってか、別な話題で勝手に一人ブチ上がってしまい「おじさん小学生」を開始した。

 儀礼研究会のテキスト「宗教生活の基本形態」で、集合的沸騰(Effervescence collective)というものが語られており、その具体例としてタイのサクヤンフェスティバルの動画も紹介されていたのを思い出す。

 折りに触れ、自分の頭の中が…なんかこんな感じになる。子供の頃から、ひとりで沸騰してしまうことが多い。

 しかし、その沸騰は大抵長くは続かない。3日くらいで急に飽きたり、抱え込みすぎて破裂したりして、我に返る。そしてしばらくすると、また別のことで沸騰して「うおおおお!」となる。

なぜ2週間も続いたのか?

 そんな短期的な「ひとり沸騰」をしがちな私が、今回「おじさん小学生」を半月以上継続できたことは珍しいケースだ。

「おじさん小学生」が生活の一部になっている。朝起きて夏休みさながらラジオ体操をし、8時までに作業場に出向いて朝礼を行う。漢字の書き取り練習をし、掛け算を暗記し、児童文学を朗読する…

 最初のうちこそ楽しく盛り上がっていたが、今はただ、「それはそういうものだ」という境地でやっている。

 私は小学生をやる。それはそういうものだ。

 しかし、それはどういうことだ?

儀礼の力

 そこで儀礼研究所での学習内容を振り返ると、この活動のうち特に「朝礼」には儀礼の諸条件があてはまる。

1.聖なるもの、非日常がある
 聖なるものとは思わないが、まあ、小学生をやるおじさん(成人)は非日常的な存在であろう。
2.二人以上である
 おじさん小学生を始めて以来、方法や分野(科目)は違えど「小学生」活動をしている人たち(いわば<わたしたち>)が出現し、活動報告の傍ら、朝礼に参加するようになった。彼らはサロンの中でもさらに「小学生」のトーテム氏族として分類されるだろう。
3.決まった形式がある
 ほぼ毎日、朝8時に実施され、そこには決まったプログラム(LTや教科書の紹介)がある。何ならチャイムも鳴らす。起きられなかった人には録画も残す親切仕様である。
4.非合理的である
 言わずもがなである。ただ、早起きのキッカケにはなるという点では「出勤」儀礼に通じるところがあるかもしれないが、コロナ時代の出勤同様、突き詰めてしまえばそこに意味はない。そしてノリはある。

 朝礼がこれらの条件を満たし「儀礼」となったことにより、個人が突然ブチ上がる「ひとり沸騰」が瞬間的な爆炎から、緩やかで消えない炎へ移り変わったのではないだろうか?

再現性の確認(したかった)

 この仮説を確かめるために、その後に沸き起こった2つの「ひとり沸騰」を儀礼化することで、継続的な活動に結びつけることができないかを実証したかったが、締切日までには間に合わなかった。

 一つは作業場の片付けである。まずは大掛かりな掃除を行い、いったんキレイにした状態を維持すべく、水曜と日曜には片付けと掃除を報告することにした。さいわい部屋の片付けは「家庭科」に属するために、報告の場も得ることができた。

 ただ…他の家族の持ち物がかなり部屋にあり、それを処分・整理しようと相談したところ「そんなにスペースが欲しい?」「いつでも捨てられるんだからいいでしょ」と露骨に嫌がられた。部族内で別な儀礼を勝手に始めると反感を買うケースの実例になってしまった。

 もう一つは楽器の基礎練習である。これはひとり沸騰というよりは長年の課題で、どうしても基礎練習が続かないので、儀礼化することで「それはそういうもの」と定着させることができないか?という試みである。

 楽器をやっている人たちに聞くと基礎練習は割とまちまちなので、これを機にみんなでやっていきませんか?と声をかけたいところだが、実はまだ二の足を踏んでいる。

 なぜかというと基礎練習は他人が見ても面白くない。成人が小学生をやっている様子は楽しそうだし、見ていて楽しいが、基礎練習は単調で長い。これをどう楽しんでやるか、見てて楽しいものにするには?どうしたらいいか思いつかないうちにレポートの締め切りが近づいてしまった。

(2020/07/09追記)
つまり基礎練習においては、儀礼をはじめから儀礼として定着させようとするのではなく、いったん集合的沸騰を経由させることで、新たな儀礼、新たな日常として定着させることができないか?と考えていたようだ。

篝火(かがりび)を灯そう

 というわけで、引き続き実験をしていこうと思う。やたら一人で沸騰してしまう人間をどうコミュニティに役立てるかという時に、儀礼のメカニズムを意識することで、少なくとも破滅的な結末を回避できそうではある。

 たとえその起源が刹那的な発火であって、さらに本来の意味や目的が抜け落ちていったとしても、そこから生まれた儀礼が作るノリがもたらすものは、集団の形成に寄与するかもしれない。

 もしそれが、寄る辺のない人たちが暗がりに見つける篝火になっていたら嬉しい。篝火がいくつもあるなら、もっと嬉しい。


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