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抽象的思考の外側としての身体に、短期的に働きかけるカフェイン【おじさん小学生の譫言vol.44】
数ヶ月ぶりにコーヒーのんだ
時間が余っていても気力がない。ということで余った時間を労働にあてる。生身の他者と触れ合うことさえなければ、かなり社会人に近い存在になれる。という仮説が当たって嬉しい。
経済的な問題はこれで当面なんとかなった。10年続けられる仕事ではないので、ゆくゆくはまた職探しするのだが、この隙に別の部分を補強していきたい。
気力が足りないなら、気力(意志の力)を必要としない領域を広げればよい。そのために短期的に気力を費やす投資として、数ヶ月ぶりにコーヒーを飲んでいる。
単発の行為を再現する
意志判断をする前段階で、脳が何かをせずにはいられない。という感覚を抱くことがある。
この時、何かを再びせずにはいられないと思うために、ある行為が記憶されているならば、それは記号情報であるよりも身体の特定の感覚であるようだ。
だからカフェインをつかって、一時的にその身体感覚だけを記録する。楽器をさわり、語学をやり、作文して読書して映画を観る。
それは薬効によって生じた一時的な気分のムラに基づいた行為だが、その身体感覚を記録し、次は薬効なしで再現する。ということを目指す。
苦痛の一滴を自ら舐める
再現は苦痛である。カフェインの反動の中、すぐに結果や報酬が発生しない、退屈で不自由な時間を過ごすことを喜べるプレイヤーは少ない。
だが、その苦痛こそが、習慣を習慣たらしめる最後の一滴なのではないか?と思う。なにごとかを、したくないのにすること。それが「やらずにはいられない」を生み出すのではないか?心当たりがないか?
幸福感には自主性が前提する。それで苦痛を、相殺とまではいかなくても緩衝できるのではなかろうか?ということを考えて実践する。
抽象的思考ゲームの虜として
幻みたいな概念の構造を仮定して、具体的な新規行動に移るということが好きだ。他のことよりも比較的結果が出せていると思えるからかもしれない。
ゲームは不自由さを楽しむものであり、不自由さを(いつか)乗り越えることができると信じることに、楽しむという自発的行為の核がある。
しかしこのような抽象的思考ゲームには「外側」がある。そのゲームを楽しむためには、前もって取り組むべきこと、主に身体性に対して行う政治があるようだ。
かつてカフェインに頼って力技で生活を回していた頃とは違う解像度でプレイできることが嬉しい。さらに難易度を上げていくことができそうだし、それを究極的には自分という枠組みの外に溢れさせること。自分を「理不尽な幸運」そのものにしようとすることを目指せるなら、これほど無邪気に邪悪で都合のいいことはない。
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