でち日報2024/03/22

カフェイン2日目、ここで進捗を出し切って明日サボる

自分でおろします…

資本主義を相対化し、無限の成長と進歩に依存しない世界を目指すということは、自分自身がこれから「よりよくならない」生き方をすることに通じる。今以上に何かが増える・できる・知る・成長する、みたいなことを、いったんラジカルに全否定してみようと思うし、特に世界がどうこうということもなく、既にそういう態度ではあった。

進歩・発展・成長を疑うこと。限られた状況で分配すること。その場合、短絡性は耐える対象ではなくて、適度に発散させるものにならないか

ついていけない人、お行儀よくいたくない人の望みも当然に叶えられなければならぬ以上、都合の悪い立場の相違を包摂する点で共通している必要がある

子供どう思うのこれ

テレビ見てたら手持ち無沙汰になるのはわかる

SNSがよ〜、利用者も運営も、とにかく「いじわる」なんだよな

まあこれはよくある。個人が想定する合理性は簡単に拡張されうる

真面目に仕事をする。都合の悪い立場のまま対立しない。サステナブル蕩尽をやる

フェイクは悪ではなく(あるいは悪そのものが問題なのではなく)、その濃度が問題であり、この濃度は無限に高まる作用がある。自浄作用ならぬ自汚作用とでもいうべきか

それを押し戻すものが、おそらく「共有不可能な善」みたいなものであるということ。これは個人の力を信じるということでもある。

しかし善性は伝播されてきたものではなかったか?ある形では共有できて、ある形では共有できない、というだけではないのか?

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