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でち日報2023/05/15

いつも日報単体としては、あまり書くことがないが、その裏でEvernoteには毎日10~20のメモが発生しており、

その整理をしているのだから、日報の内容に反映させない手はない。ということで、前日付の日報を投稿することにする。

追記:長い

月曜はファスティングとデカフェで、読書もお休みしてタスクの整理をしていた。古いMacbookAirを初期化したり仕分けを入力したりした。

Evernoteのメモには、内容に追記しつつ、分類ができるように雑なタグ付けをしている。このタグ付を今年Evernoteを再開してから作成した250件に付けていく作業は、まあ負担ではないのだが

過去にtumblrからの連携でEvernoteに共有した内容に、無限にタグがついており、今後タグによる内容の整理を行うにあたって、この1万件ぐらいある不要なタグを削除していく必要がある。

Windows版アプリからだと、タグの一括削除ができるらしいので、手間だけど仮想デスクトップの方にインストールしてできるか試そうかな…

某所に書いた通り、SNSへの書き込みを禁じているのは、自分にとって即時的なアウトプットというものが向いていないからだ。

しかしそれを厳密に言うと、アウトプットの即時的な共有に難があるということで、発想アイデアの類いは、放っておいても次々出てくる。

それを公にすることを堰き止めること。すると、一つのアイデアに対して何度も似たようなメモが作成される。それらは反復されているように見えて、少しずつズレた表現になっていく。

この変奏が重なると、あるテーマについてものを言おうとする時の、飛距離が変わってくる。タグ付けの作業をしているのは、これを後で一覧できるようにするためだ。

たとえば、ある映画を観た感想文が、その作品を例の一つにとって「映画の感想を言う」ということ自体、ひいては芸術を含めた作品に対して何事かを公に言う行為について、語ることになる予定である。

こうしたことを可能にするには、一つの対象にメモの変奏が重なること、そのための「チャージ」の時間が必要であるようだ。

こうしたことは、自分の中で長年の問題だった「思考の揮発性」にも関連する。色々と思いつくのであるが、それが結実することはほとんどなく、昨日考えていたことを今日忘れ、翌日にまるで初めて思いついたかのように驚く。

それはそれで楽しい人生なのだけど、そろそろ上っ面だけで生きていくことが難しくなってきた。自分の考えていることを、単なる折り重なりではなく、建築物のように、構造と機能をもったものにしていきたい。

では、それがなぜ今までできなかったかというと、当然「めんどい」からである。人類最大の敵とも称される、面倒くささに負けて、徒に年月を重ねてしまった。

その面倒くささを突破して、メモを整理し始めることが、できるようになったのは、ひとつに加齢による感情の鈍麻、もう一つはさらなる快楽の追求であると思われる。

即時的で刺激の強い、甘味のような快楽だけでは喜べない。もっと長期的で刺激の穏やかな、渋味のような快楽を求める心が強くなってきた。

さらには、かつては不快だったはずのもの、すなわち苦味を真剣に求め始めた。もちろん不快は不快なままなので、始めることも続けることも苦痛である。しかし、その苦痛を享受していきたい。

こうしたマゾヒスティックな感覚は、その結果としての実利や解放を主としない。受験勉強やサウナ水風呂のような、苦悶の後の発散ではなく、苦悶そのものを承るということに向いている。感情の鈍麻もそれに寄与する。

メモの内容を反映させたら、めちゃくちゃ文量が出てくるな!

40歳を前にした今も、自分は仕事ができない。国語力の発揮や、ものごとの理解は人並みにできるが、実務遂行能力が極端に欠けている。

いつも「自分は何もできない」と独りごちていたが、そうではなく「やっていないことはできない」に過ぎないのだった。つまり、実務遂行能力を鍛えていないのだから、実務が遂行できない(あるいは、鍛えた分だけしかできない)

実務の遂行は苦痛である。いまやっと、それを苦味として受け入れるばかりでなく、自ら求める心が育ってきた。

そこには「現代経済学の直観的方法」の後半にある「縮退」「コラプサー化」のアイデアが大いに貢献している。短期・投機・短絡的享楽と、長期・投資・重層的享楽の対比を、甘味・苦味という表現でまとめることができた。

こうした概念上の操作は、いわば「自分語」への翻訳であるし、それを人に見える形で表現することは、逆に「社会語」への翻訳である。このアイデアは、語学の勉強をサボって語学にまつわる本を読み漁ったことによって得られた。

こうしたアイデアの連結は、単体で使役していたカードのコンボの幅が広がってきたようなものとも言える。今までは一回ごとにデッキを丸ごと捨てるような、蓄積を持たない揮発性の高いプレイスタイルだった。

それがいまこうして、自らを望ましい姿にしようとする言葉の力が連動しつつ働いている。この力というものは、ある種の詩心と言って差し支えないのではないか?

以前もどこかで言ったことのあるような内容が続いている自覚もある。そして、これだけのボリュームになると、推敲に時間を割きたくなってくるが、そのまま投稿し、個別のテーマについては改めて書き下ろすこととしよう。

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