見出し画像

頭の水を頭へもどす

みずから選んで、体調を崩している。社会的な要求と身体的な恒常性は相反しうる。

ある種の生きる苦しみは、自分から踏み込んで傷つくことで緩和される。私がこれを選んだのだ、と叫ぶことで、痛みは静かな痛みになる。静かになった痛みは、ほのかな光に似ている。

しかし危機に迫られて、あるいは揺るがない信念のために、ではなくて、その「利便性」のために踏み込んでいる俺がいる。自分から苦しみを取りにいくほうが「おトク」というわけだ。

善性についてもそうだ。邪な心を鎮め、善を重んじるほうが「おトク」なのだ。その損得勘定の、射程をいかに長く保つかという話でもある(損得勘定を長く保つほうがおトクだと思っている)

そうした勘定を全て反故にする、制御不能な自分の愚かさと衝動性が生んだ状況へ、私がこれを選んだのだと、嘘の大声を出して頭から突っ込んでいくこと。これほど歓喜の痺れをもたらす行為があるだろうか?

無数の「教え」は人生の劫火に焦がされた。ここから先は、黒く苦い生活の汁を啜るばかりであり、それが嬉しい。

謎は振り返って、解けていたと知る。救われたということも、後になってようやく気づく。そういう仕組みを真に受けて、いまいちど虚空に頭突きを繰り返す。

器が小さければ、逃げてもすぐ元の場所に戻ることができる。つまらない人間であることの「利便性」と呼んでもいい。よく眠り、よく食べ、よく遊び、それでも何ひとつ満たされないなら、自傷の代わりに、困難に立ち向かうだけでいい。

ひりつく風が吹き付けて、俺が人間であること、くだらない不条理を是とする、くだらない人間であることが成立する。

それは胸を張って誇れる類いのことではないし、ましてや歴史的偉業ではありえない。そのような正しさ、まともっぽさ、格好の良さに頼ることができない。虫のようにたかり、菌のように蝕み、廃屋の淀んだ暗がりそのものであること。そこに無比なる力のほとばしりを見ること。

あるべき状態にひびが入って、割れ目から出てきたものをすくい上げるようにしか、何かを言うことができない。それはそれでいいと思う。

頭から垂れた水を両手で受けて、それをまた頭へ戻す。その水が黒い血であることは善である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?