![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/70736418/rectangle_large_type_2_916a2d2f81bbda206a8a6c82e59f52e7.png?width=1200)
無駄と徒労の快楽、そして人間の生存【おじさん小学生の譫言vol.22】
書き留めておいたアイデアを後日見直すと、違った印象がある。
メモ:間違う、無駄であるという最強の進化
当初は、「自然の摂理に反して破壊と浪費を振り返すことこそが、人類の最も強力な進化だったのではないか?」みたいなことを書くつもりだったのが
環境に適応する。環境に適応せざるを得ない。という態度が受動的あるいは中動的であるとすると、何事かに対して、その要請を待たずして行動すること(実際には要請を拡大解釈して行動すること)に属する能動的な行為そのものが、あらかじめ徒労と無駄を想定しているということにはならないか?と思うようになった。
「やってみなけりゃ、わからない」と言うが、
それ以前に「やってみるとは、わからない」なのではなかろうか?
間違うことや、無駄なことをすること自体ではなくて、それらを成立させるものは、単に未来を予測できるという観念の操作に留まらないのでは?
実現可能性収束の快楽?
たとえばギャンブルの快楽は、予測不可能な領域に跳躍して、望ましい出来事に到達したという認識(に足る信念)によって湧き出す快楽物質によるものと、そうした行為の反復学習に基づいて、その跳躍自体を快楽とする因子による(たぶん)
跳躍する時、つまり能動的に(あるいはそう本人が錯覚することが可能な構造下において)行為する時、円錐状に広がっていた世界線は出来事(event)を頂点として、ほんの少しだけ未来に向かって収束する。
それは人間の予想能力に対しても制限を追加することになるので(現在までの過去の蓄積に基づいた判断以外は空想になってしまうので)円錐は必ずしも未来に向かって広がり続けるものではなく、同時に未来からも流れ込んでくるものによって形成されており、その流量と経路が変容する。
そのこと自体を快楽とすること。結果がいかなる未来を招こうとも、跳躍(徒労と錯誤を厭わない能動的行為)せずにはいられない何かがなければ、観念は行為しない。
「あ〜今年も川が氾濫するな〜」「あ〜溶岩がふもとの村まで押し寄せたなぁ〜」と思うだけになる。そこまで危機的な状況でなければなおさらだ。
生存とは何か?
人間が、哲学的にというよりは生物的に、ギャンブルや挑戦に興奮するということは、その性質が種としての生存確率を高めたからと推測される。
能動的であることによって生存可能性が高まるのであれば、それは無駄なことをすること、浪費すること、放蕩することが(個体としての死は招くことになっても)人間種全体の生存可能性を高めるということになるのだろうか?
さらに免疫のためだけにしては奇妙に分岐しすぎている人間種の、主に精神における多様性も、無駄と浪費の多様性、失敗の多様性をもって膨大なエラーチェックを繰り返しもたらし続けるものとしてであれば、妥当かもしれない。
それはもはや、人間は個体としての生存を最優先にはしていない生物であることのマクロな証左ではないか?ということは、人間にとっての「生存」とは何なのか、それは「生存」という表現で言い表せ切っているのか?という疑問が湧いてくるが、そんなことを考えてみるのも、無駄な徒労として、失敗の多様性に貢献しているのかもしれず。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?